2014年3月31日月曜日

【国鉄1980年代】大船工場のクモハ12013のこと

廃車直前に大船工場の撮影会で公開された姿

■キミはクモハ12013を知っているか
「クモハ12」といえば、いまとなってはほとんどの方が思い出すのは1996(平成8)年まで鶴見線で活躍した052号車と053号車だろうか。052号車はいまでも東京総合車両センター(旧大井工場)で保存されているそうで、一般公開で見ることができることがあるようだ。リベットの少ない31系電車後期型の053号車が解体されてしまったのは残念だ。

また、飯田線中部天竜機関区跡にあった佐久間レールパークのクモハ12054号車も近年まで姿を見ることができたので、そちらを思い出す方もいるだろう。ロクサン形復元のために解体したJRCには私はとても腹を立てている。走らせるわけではないならレプリカ部品でじゅうぶんじゃないか(以下略)。

また、アラフォー以上の方なら、国鉄民営化のころにクモヤ22から改造された30形由来の041号車を思い出す方もいるだろう。ただし当時の私は「クモヤのままのあれはまがいものだ!」と思っていたので、とうとう見に行くことがなかった。

なぜクモヤ22改造車である041号車を当時の「リアル中二」だった私は「まがいもの」扱いしたのか。それは、国鉄民営化のころには「ほんもの」のクモハ12を見ることができたから。前述の鶴見線の2両はもちろん、1986(昭和61)年までは中原電車区に所属し、新鶴見機関区の職員輸送用電車として用いられていた013号車が存在したのだ。

新鶴見機関区の職員輸送車として有名だった

サボ変えタイムもあったようだ
もともとの運転台は50番台と同じ形状

■新鶴見機関区と鶴見駅を職員輸送車として走っていた
もっとも、横須賀線新川崎駅前にある新鶴見機関区から鶴見駅までの職員輸送のようすは、私自身の目でじっさいには見たことがない。1980年代の鉄道雑誌巻末もしくは車両配置表と、読者投稿ページをよく見ていて、そういう存在があることは知っていただけだ。当時はインターネットもなくダイヤもわからなかった。駅で聞けば親切な駅員が相手だったら、もしかしたら教えてくれたかもしれない。そう思うと当時は、鉄道趣味とはいまよりも仲間内の情報網がないと楽しみにくく、人間関係ももっと濃密なものだったのかもしれない。

余談だが、昨今問題になる鉄道ファンによる「モラルやマナー違反」の問題は当時もあった。1980年代の鉄道雑誌の読者投稿欄でもさかんに論じられていた。『鉄道ダイヤ情報』にあった読者投稿の添削記事で、応募票を乱暴に書いていた中高生が講師に注意されていたのも目にしている。線路内侵入や車両部品の窃盗、死傷事故もあった。鶴見線大川支線の武蔵白石駅を出た急曲線の部分の線路敷地内に入り込んでカメラを構えていた人物を、駅を出たばかりの列車の運転士が急停止させて、身を乗り出してけっこうな剣幕で注意する場面に居合わせたこともある。

ただ、それでもカメラを所有して撮影できる人がいまよりもまだ限られていたから、不祥事の数自体は少なかったということなのではないか。そして、いまよりは参加者が少なくて狭い人間関係のなかで趣味を楽しんでいたために、相互に牽制し合うこともできたのかもしれない。いろいろなルールは暗黙の了解とされて、心ある人たちはそれに従っていた。そのおかげで不祥事も生じにくく、瞬時に拡散する媒体もなかった。だから、目につきにくかっただけなのかもしれない。

趣味への参加者が増えた結果として、ルールを知らず顧みない危なっかしいライトな参加者もものすごく増えた。そうしてさまざまな不祥事も人数に比例して増えた。さらに、SNSなどにより不祥事の可視化も容易になされるようになった。「鉄道ファンによるマナーやモラルの問題」が現在「数多く見える」のは、そういう理由なのではないかと思っている。

いずれにせよ、じつに残念だ。

■50番台とは増設運転台の形状がことなる
さて、クモハ12の10番台は有名な50番台よりも以前にクモハ11(モハ31形)から両運転台化されてクモハ12(モハ34)に編入されたグループで、50番台とは増設側運転台のかたちがことなる。

10番台の増設側の運転台はオリジナルの運転台と同様に全室式で、運行番号表示窓も開けられているほか、運転台窓の大きさがことなり、運転台直後の客室窓も塞がれていない。雨樋も弓形に持ち上がっていて、11系400番台(モハ33形や木造車から改造されたモハ50形)のような顔つきをしている。

10番台は増設運転台が全室式

いっぽう、有名な50番台の増設運転台はいわば簡易的な追加改造のようなものだった。そのため、増設運転台も簡易的な半室運転台であり、もともとの運転台のない原型の妻面とあまり変わらない顔つきだった。雨樋も直線のままだ。

こちらは有名な鶴見線のクモハ12052(鶴見駅)

これら写真は、1986(昭和61)年8月にいまはない国鉄大船工場で行われた一般公開で撮影したものだ。そもそも、『鉄道ダイヤ情報』誌か、あるいは駅の掲示かなにかでクモハ12013が展示されると知って、この撮影会に行ったのだった。そのときに同時に撮影した101系1000番台「シーサイドライナーヨコスカ」用編成は別記事でご紹介した。

なお、クモハ12013はこの1986年に廃車されたそうだ。大船工場にはこのときにはほかにもクモハ11248も公開されてはいなかったものの、庫内にいたはず。あれはどうなっただろうかと思っていたら、2013(平成25)年に旧大船工場の跡地解体の際に解体されたのを最近になって知って、とても驚かされた。この撮影会のときには展示されてはいなかった気がする。「クモハ11248は展示されていなかったよな、そういえば」と帰路に思い出して残念に思った記憶がある。

1986年というのは、旧型国電はほとんど姿を消してはいても、現在は鉄道博物館と青梅鉄道公園に保存されているクモハ40もまだ残されていたし、こうしてより原型を残した旧型国電が残されていた。伊豆箱根鉄道大雄山線の151系電車や西武351系電車の中間に挟まれていたサハ1311形も見ることができた。秩父鉄道100形電車をはじめ、私鉄にはまだシルヘッダーのある旧型電車もかろうじて走っていた。首都圏各地の電車区の端に救援車に改造された車両もわずかに残されてもいた。

だから、クモヤ22の姿のままクモハ12041号車と改称された電車は「まがいもの」に思えたというわけ。もちろん、リアル中二でいまよりも視野が狭かっただろうから。

■72系電車と80系電車を見ていない「劣等感」
私はこうして旧型国電をかろうじて見ることができた世代とはいえ、72系電車や80系電車が走る姿をじっさいに自分の目で見ることができなかった鉄道趣味での「劣等感」はある。鉄道趣味を始めて古い車両が好きになると、いつ生まれても、自分の物心ついていない時代の車両を見たかった、という想いに駆られそうだ。

それでも、国鉄民営化のころは国府津電車区(当時)のクモハ40や高崎第二機関区(当時)のEF55の復活などもあって、いろいろと古い車両を活用した鉄道イベントもさかんに行われていたといまさらながらに思う。それまでは廃車解体するだけだった旧型車両を、動態保存して集客するべく、鉄道イベントも多く行われていた。鉄道車両を文化財として大切にしていく機運が日本にも少しずつ芽生えていくのではないかと、期待もした。

なんといっても、景気もいまよりよかったということにつきるか。

ところが、これら復活運転は京福電鉄福井支社での連続脱線事故により、それを名目にして相次いで取りやめられてしまったことは、みなさんもご存じの通り。ブレーキまわりの修繕などの事故防止対策にかける費用が惜しまれるようになったということだ。景気が悪くなったからだろうね。

だから残念ながら「いつまでもあると思うな動体保存」ということだ。いま走っている列車は日ごろから乗って撮っておくべしということ。秩父鉄道C58363や12系客車だって大事にしないといけないね。

それにしても1986年とは、もうすぐ30年経つほどの大昔なのですなあ、と思うとため息が出る。

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【撮影データ】
Nikon F-301/SIgma 35-70mm F2.8-4, 75-210mm F3.5-4.5