夜の時間の電車に揺られて帰宅するときのこと。それなりの人数の乗客がいてもわりと静かだ。おもいおもいに一日の終わりを内省しているようすの人が多いのは、車外を流れる景色もあまりよく見えず、窓に映る、蛍光灯の直射によって顔色が悪く見える自分たちの姿がいやでも目につくからかもしれない。
そんなことを考えたきっかけは、初対面の方と最近交わした会話による。「鉄道が好きなんですか?」と問われて、よく聞き取れなかったことと、最近のもやもやした思いから
「いや、それほどでも」
などと、煮え切らない答えをしたからだ。大人なのだから、とりあえず「ええ」と肯定しておけばいいのに。
というのは、私はやはり「西武101系電車と国鉄101系電車が好きな人」なだけで、「鉄道ファン」ではない気がするという思いと、いやでも、好きな鉄道車両が少しでもあり、車種はともかく二条の鉄路が好きなら、やはり鉄道ファンと名乗ってもいいのではないか、という迷いがあるから。「私のようなうすっぺらい男が鉄道ファンと名乗るのはおこがましい」「滅相もない」「恐れ多い」という気持ちがあるのだ。どうもこれでは、しょこたんとか、私のパートナーのパロディだ。もやもや。
しょせん私は「昭和50年代の秩父鉄道&西武鉄道ヲタ」ということなのだろうな、とか。ぐずぐず。
ああ面倒くさい自意識と奇妙な罪悪感。っていうか面倒くさい俺! うじうじしてぐずぐずする人なんてだいきらい。といいますか、うじうじぐずぐずなおっさんってマジうざくないすかあ。サーセン。
でも、結局はうだうだいいながら線路際に行くと、そんなことはどうでもよくなるのだ。ああ、この雰囲気はいいな、いいことだなあ、いいことであるよ、と詠嘆の気持ちになる。(古文の「詠嘆」の説明でしか目にしない文)。いいのだいいのだこれでいいのだ。