出発を待つE851形(1992年飯能) |
今回は西武鉄道の貨物輸送のうち、有名な西武秩父線のものではなく、国分寺線を走ったであろうものについて書いていく。できるだけ資料があって「裏がとれる」ものを中心に書いているが、事実誤認や不注意による見落としが、いつも以上にありえることはあらかじめおわびしておきたい。「私的な概略的なもの」と称しているのは一次資料を用いて書いているのではないからだ。既存の書籍などを見ながら「ははあ、おそらくこういうことだったのだろうな」という部分をまとめた、メモ書き程度の書物だと思ってほしい。
■貨物輸送のための重要な支線でもあった
西武鉄道の貨物輸送は1996(平成8)年3月にその役目を終えた。国分寺線を一般貨物列車が走っていたのは、小川で貨物取扱が行われていた1981(昭和56)年3月31日のダイヤ改正まで。その時点では東村山と小川のひと区間だけを走っていた。
現在の西武鉄道とJRの連絡輸送は、所沢から武蔵野線新秋津にいたる連絡線を介して行われている。だが、武蔵野線とこの連絡線の開通する1976(昭和51)年までは、国分寺と池袋が西武鉄道と国鉄(当時)との貨物輸送の連絡駅だった。
1985年の国分寺線の旅客列車。 すでに701系と新101系などの「黄色い電車」が 主力だったようだ(1985年東村山) |
このうち国分寺は、川越鉄道(当時)が開業して以来ずっと貨物輸送にも用いられてきた。したがって、最盛期には貨物列車は国分寺〜東村山の全線を走行していた。池袋とならんで国分寺は重要な拠点だった。以前のエントリーで、国分寺線の途中駅は恋ヶ窪、鷹の台、小川のいずれでも上下交換が可能であり、羽根沢信号場から恋ヶ窪まで複線区間が設けられていることに触れたが、高頻度で旅客列車を運転するだけではなく、貨物列車の退避が可能であるように意図されたと考えられる。
国分寺線国分寺駅には当時も現在もホーム1面で1線しかないが、国鉄中央線のあいだにもう一本中継する線路が敷かれていた。
■川越鉄道時代の貨物輸送
川越鉄道が1895(明治28)年に国分寺から川越まで全通したときの貨物輸送の中身は、生糸、サツマイモ、茶などで、輸送トン数は60トン弱だった。開業時に用意された貨車は有蓋車12両、有蓋緩急車2両、土運車4両だった。
氷川神社付近の新河岸川(2022年) |
城下町である川越は新河岸川水運で繁栄した物資の一大集積地だった。また、埼玉県は現在でも小麦の重要な産地と消費地でもある。現在の本川越駅に隣接して1921(大正10)年に操業開始した武蔵製粉は、1938(昭和13)年に日清製粉と合併し同社川越工場になった。この工場への貨物輸送は1974(昭和49)年にいたるまで、長いあいだ西武鉄道の得意先のひとつだった。
また、当時の川越は織物と製糸産業も盛んだった。1923(大正12)年に操業を開始した大興紡績は1937(昭和12)年に日清紡績川越工場となったが、その敷地は(旧)西武鉄道ぞいにあって専用ホームも設けられていた。
川越鉄道は1922(大正11)年に(旧)西武鉄道と改称した。そして1925(大正14)年に南大塚〜安比奈(あひな)の安比奈線を開通させ、入間川からの砂利輸送を開始している。その後、(旧)西武鉄道の貨車の増備は無蓋車が中心になったことからかんがみるに、貨物輸送の中心は砂利輸送になっていったと考えてよさそうだ。武蔵野鉄道との統合時には所有貨車の総数が増え、有蓋車は緩急車1両をふくめて13両、無蓋車は54両という構成になっていた。
旧安比奈駅付近(2021年) |
旧安比奈駅付近(2021年) |
なお、1929(昭和4)年の吾野延伸時より石灰石輸送を行っていた武蔵野鉄道も無蓋車を大量に所有していて、(旧)西武鉄道との合併時にはその数は緩急車をふくめて有蓋車が18両、緩急車をふくめて無蓋車は199両という大陣営だった。
■西武鉄道成立後の貨物輸送
(旧)西武鉄道と武蔵野鉄道の沿線には旧軍の軍事施設も多数設けられていたために、戦時中には軍需輸送もさかんに行われた。1921(大正10)年には所沢の西側一帯に旧陸軍の資材倉庫が完成し、引き込み線も敷かれた。この施設は1935(昭和10)年に旧陸軍立川航空廠所沢支廠となり航空機の部品製造を行った。のちにこの敷地が西武鉄道所沢車輌工場となる。
小川には1942(昭和17)年に開設された旧陸軍兵器補給廠小平分廠への専用線もあった。戦車や装甲車、トラックなどを保管し、各地の部隊に送り込む施設であり、修理部門もあった。専用線は1943(昭和18)年もしくは1944(昭和19)年に開通した。この敷地は戦後ブリヂストン東京工場に払い下げられ、専用線は拝島線の一部として活用された。
さらに、小川からは日立航空機立川工場の専用線も1944(昭和19)年に設けられ、航空機と航空エンジンが作られていた。この専用線は現在の小川〜玉川上水の前身だ。
終戦後の西武鉄道沿線には旧軍施設が接収されて米軍施設が設けられ、西武鉄道はその輸送業務も行っている。西武鉄道全体の貨物輸送量は1946(昭和21)年には78万トンだったものが、朝鮮戦争勃発後の1951(昭和26)年には168万5千トンにまで急増している。そのために機関車、貨車の増備が迫られて、1955(昭和30)年の最盛期には所有貨車は1,000両を数えた。
平成年間の貨物輸送終了時に多数在籍していた各種輸入電気機関車も、このときに導入されたものだ。また、かの有名なし尿輸送は新宿線系統でも行われていて、国分寺線でも運行されていた。
アメリカGE製のE61(2009年横瀬) |
戦後復興と高度経済成長、1964年東京オリンピック(昭和39)年による需要の増加があったものの、多摩川や入間川の砂利採掘は乱獲防止のために1960年代に禁止された。それにともない安比奈線からの砂利輸送は1964(昭和39)年で終了したようだ。そのためか、1964年の西武鉄道全体の貨物輸送量は71万8千500トン弱あったのが、翌1965(昭和40)年には56万8千トンにまで下落している。
その後の西武鉄道の1970年代の貨物輸送の三本柱は、航空自衛隊入間基地(下原)との燃料と物資輸送、ブリヂストン東京工場(小川)とのカーボン原料輸送と製品輸送、そして1969(昭和44)年に開業した西武秩父線による三菱セメント(現・三菱マテリアル)セメント輸送および燃料輸送(東横瀬)だった。
とくに西武秩父線開業後においては、セメント輸送関連の占める割合が大きかったと思われる。西武鉄道全体の貨物輸送量は開業前の1968(昭和43)年にはモータリゼーションの進行により減少傾向にあって、48万7千トンだった。それが西武秩父線の開業した1969(昭和44)年には74万7千トンにまで増加し、開業翌年の1970(昭和45)年には120万トンに急増していることから類推できる。
私鉄最大の電気機関車とされるE851形電気機関車は西武秩父線開業時に、急勾配と長大トンネルでのセメントや燃料を運ぶ重量列車の牽引と、一列車あたりの輸送量を増やして旅客列車の増便を阻害しないために導入された。
これらの貨物列車の国鉄への連絡は1976(昭和51)年の武蔵野線開業前までは、国分寺経由でも行われていた。E851形がセメント列車と燃料輸送列車を牽引して国分寺線にも入線していたようすは、ネット検索をするとみつかる。ありがたいものだと諸先輩方に感謝の念を抱く。
国分寺線を最後まで走っていた貨物列車は、ブリヂストン東京工場発着のもののようだ。小川で貨物取扱が行われていた1981(昭和56)年3月までは冒頭に述べたように、小川〜東村山を走っていた。
■貨物輸送の名残はいまでも健在
冒頭でおことわりをしたのは、いわゆる団塊ジュニア世代の筆者は西武鉄道の電車について関心を持って鉄道趣味を始めたから。つまり、貨物輸送についてそう強い関心を持っていたわけではないために、同時代のようすを注意深く見ておらず記憶できていないのだ。
■貨物輸送の名残はいまでも健在
冒頭でおことわりをしたのは、いわゆる団塊ジュニア世代の筆者は西武鉄道の電車について関心を持って鉄道趣味を始めたから。つまり、貨物輸送についてそう強い関心を持っていたわけではないために、同時代のようすを注意深く見ておらず記憶できていないのだ。
そして、東京23区内の沿線に在住していた小学生のころにいろいろと本を読み始めただけで、まだ行動範囲が狭かった。そのころにはすでに貨物輸送は武蔵野線を介して行われていて、秋津以遠に来ないと見ることができなかった。つまり西武鉄道の貨物輸送は、筆者がものごころついた1980年代以降にはすでに衰退期にあった。
それらの理由により、筆者自身は西武鉄道の貨物列車を見た回数が数えるほどしかない。秩父鉄道への行き帰りにE851形を目にしたことがあるだけだ。そして、その後長らく鉄道趣味から離れていたため、21世紀に入って埼玉県内に転居してきてから、旧型電気機関車の代替として351系の主電動機を転用して製造されたE31形の工事列車や、イベント開催時の展示を見た程度しかないのだ。貨物輸送への興味の「熱量」自体が、電車に対するそれより低かったといわざるをえない。
工事列車の牽引のためか日中に姿を現したE34号ほか(2008年小手指) |
西武秩父駅に展示されたE31形(2008年) |
したがって、書籍を持っていても注意深く接していなかったために、貨物輸送についてはとくに基礎知識が大きく欠落している自覚がある。誤記や事実誤認があれば修正するつもりだ。
川越と東京の物流について調べていくと、新河岸川水運の歴史にたどりつく。また、武蔵野鉄道の開業理由のひとつには名栗で生産される西川材と呼ばれる材木の輸送を、入間川のいかだによる水運に代わって行うことも目的としていたという。これらを本稿には記していないのはきちんとした資料を私自身が持ち合わせていないために、裏づけがきちんととれないからだ。
さらに、貨物輸送の年ごとのうちわけやその推移についての数値もわかっていない。都道府県の統計年鑑から駅ごとのトン単位での貨物取扱量を調べてみるといった、地道な調査が必要になるだろう。これは今後の課題とさせてほしい。
秩父鉄道広瀬川原車両基地のD15(2010年) |
横瀬車両基地のD16(2009年) |
2022年6月のいまになっても知らないことばかりで、調べていて新鮮だったというのは貴重な経験かもしれない。まだ知らないことのほうが世の中には多いということがわかったのだから、それを調べていくという目標ができた。
恥を承知でいえば、横瀬車両基地に保存されている機関車のうち、ディーゼル機関車のD15形D16号はブリヂストン東京工場の私有機関車だったものを、同専用線の廃止後に西武鉄道に譲渡されたものだということを今回はじめて知った。はじめて知ることが恥ずかしいのではない。10年以上前から横瀬車両基地で実車を見ていたし、このことが掲載されている書籍もずっと所有していたのに、見落としていた自分におどろかされたのだ。
また、西武鉄道からは三菱マテリアル専用線で使用されていた同型機であるD15号が秩父鉄道に譲渡され、こちらも広瀬川原車両基地で健在だ。ともに1969(昭和44)年に日本車輌製造で製造された15トン級の入換用規格形機関車だ。
横瀬車両基地にはD16号のほか、E854号や輸入電気機関車も保存されていていまでも見ることができ、さらに大井川鐵道に行けばE31形が動くところを見ることができる。これはとても幸運なことだ。いわば日本の高度経済成長を支えてきた「証人たち」を見ることができるのだ。その保存に携わる西武鉄道関係者のみなさん、あるいは大井川鐵道の関係者のみなさんにも、敬意と感謝の気持ちを表明したい。
横瀬駅構内のE851形(1985年) |
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【参考資料】
『写真で見る西武鉄道100年』ネコ・パブリッシング(2013)
西尾恵介, 井上広和(1980)『日本の私鉄2 西武』保育社
小林尚智,諸河 久(1990)『日本の私鉄12 西武』保育社
“写真でひもとくこの街のなりたち このまちアーカイブス 川越”, 三井住友トラスト不動産, (2021)(2022年5月31日参照)
“写真でひもとくこの街のなりたち このまちアーカイブス 所沢”, 三井住友トラスト不動産, (2021)(2022年5月31日参照)