■暑さは写真には写らない
暑さは写真にはなかなかうまく写らない。1930年代のソ連映画産業創世記のころに映画監督になったミハイル・ロンムがかつて、暑さとのどの渇きを役者が自然に表現できるように、たいへんな苦労を重ねて砂漠でロケ撮影をしたのに、ラッシュ(未編集の現像済みフィルム)を見てみると、「スクリーンの上ではむしろすべてが涼しげに見えるのにはほんとうに驚いた」とインタビューで答えていた*1。真夏の蒸し暑い時期に写真を撮るたびに私はいつもこのエピソードを思い出す。ドキュメンタリー、あるいは文学的な自然主義やリアリズムをめざしていない私としては、蒸し暑さなんて写真に写らなくていいけどさ……。
そういう思いもあるから、私は撮影時にいつもどのカメラでもホワイトバランスを5,000Kに固定して撮っている。ニコンのカメラの「WB:晴天」はたしか5,200Kだし、LUMIX GX7 Mark IIの「WB:晴天」でも5,000Kより高いはずだ。つまり、私はほんの少し青っぽく写していることになる。
さて、こう書くのは南海汐見橋線を写すために汐見橋から芦原町(あしはらちょう)を経て木津川まで歩いた日は、記憶に残るほどにとても暑かったから。SNSなどで、暑いだの寒いだのと嘆くのを見るのが私自身は好きではないけれど……だって夏なんだもの、仕方ないじゃないか。後藤隊長も言っているだろ。「台風のしでかしたことであれば……」って。あ、責任の所在の問題の話ではないか。だいいち、お前もしばしば書くだろ! それはともかく、この日はよく晴れていたうえにあまり風も感じなかった。たんに歩くだけなら距離は短いからすぐだ。けれど、あいまに30分おきに走る列車を待つので、それなりに時間はかかる。
そうして立ち寄った芦原町駅は構内に入ってみてもちっとも涼しそうに思えなくて、駅裏を走る阪神高速15号線高架下の日陰で列車を待った。自転車に乗った小学生の男の子もそうやって地面に座って宿題をしていたし。地元の方の行動をまねしたということ。まあ、私は不審者に見えるか。
さすがに長い距離を歩いたとは思わなかったけれど、いまEXIFを見ると芦原町で岸里玉出(きしのさとたまで)行き列車を撮ってから木津川まで歩き始めて、木津川駅周辺で撮るまでに20分も経っていないのだから、むしろほんの少ししか歩いていないのだ。
それでも、木津川駅の駅舎周辺のなにもなさを見ると、ずっと遠くに行ったように思えるから不思議だ。線路を渡ると住宅が立ち並んでいるのに。
■いろいろ調べてみると興味深い木津川駅の歴史
さて、昨日のエントリーでも南海高野線のこの汐見橋〜岸里玉出(通称:汐見橋支線)の変遷について、「この路線のいまのようすは、おそらくは水上交通と都市の繁栄の変遷をものがたっているのだろうと考えさせられた」と書いた。この件はグーグル検索レベルでも調べ始めるとたいへん興味深く、いつまでも私の手で記事化できなくなりそうだ。まず、大阪の町の歴史を知ることから始めねばならないから。けれどそれはたいへん興味深い。
南海高野線の前身である高野鉄道が、堺市内の大小路(おおしょうじ)駅(いまの堺東駅)から大阪都心に乗り入れるさいに、難波に乗り入れできず道頓堀川そばにあるいまの汐見橋駅をターミナル駅としたこと。そのさいに、汐見橋駅にまで入堀を設けることができなかった。そこで、木津川に面しており貯木場が当時あった大正区の対岸に位置した当駅に貨物側線を設けて、材木輸送を行ったということ。けれど、国産材木の生産減と、大きな貯木場が安治川沿いの南港平林地区に移転したこと。そしてなによりモータリゼーションの進行によりトラック輸送が主力となったこと。あるいは、産業構造の変化により、造船、鉄鋼、繊維などの沿線にあった大工場が移転した。こういう産業の発展のさまざまな推移の結果、いまにいたるわけで。
そう思うと、汐見橋線には町の栄枯盛衰を見る思いがする。ふと思ったのは、町の歴史はまるで人体のようだということ。鉄道や道路は血管に相当する。産業や商業が発達するには、血管やリンパ管にあたる鉄道や道路がこまかく発達していき、やがて老化していくと血管の働きも衰える。そうなるとさらにその部位も衰えていく、というところが似ているなあ、なんて。
ともあれ、ごく簡単にまとめるならば日本経済新聞Webの以下のコラム記事がわかりやすいだろう。
『都会に思わぬローカル線 大阪・南海汐見橋線の歴史』とことん調査隊 関西タイムライン コラム(地域) 関西 2019/8/13 7:01
■西天下茶屋あたりもよさそう
けっきょく、蒸し暑さにいやになったことと、外出時間の門限から、木津川から電車に乗って岸里玉出まで行ってしまった。なにしろこう見えても入院患者だったから、夕食が早いのだ。だから、西天下茶屋(にしてんがちゃや)の駅舎や下町らしい駅周辺のようすは電車から見ただけだ。西天下茶屋まで下るとあたりは住宅地で、まるでJR鶴見線浅野付近のよう。じっさい、木津川のとなりの津守からは乗降も増える。
こんどはべつの季節にあらためて岸里玉出側から歩いてみたいと思う。なにわ筋線計画に活用されなくなると、この路線がいつまでもこの姿ではいないとは思えるし。
*1 「スクリーンの上ではむしろすべてが涼しげに見えるのにはほんとうに驚いた」とインタビューで答えていた:『回想のロシア・アヴァンギャルド―インタヴュー・ソヴィエト映画を築いた人々』(編)リュダ&ジャン・シュニッツェル、マルセル・マルタン(訳)岩本憲児、大石雅彦、岩本峻 新時代社, 1987.2 272ページ
【撮影データ】
Panasonic LUMIX DMC-GX7 Mark II/LEICA DG SUMMILUX 15mm F1.7 ASPH. /LUMIX G 42.5mm F1.7 ASPH. POWER O.I.S./LUMIX G VARIO 45-150mm F4.0-5.6 ASPH. MEGA O.I.S./Adobe Photoshop CC 2019