【おことわりとおわび】
※写真はいずれも旧ブログに掲載していたものの再掲載です。旧記事を復活させるのではなく、レタッチをやり直して新たに記事を起こしました。旧記事にいただいたコメントなどは反映できておりません。コメントをいただいたみなさんにはおわび申し上げます。
■店頭で「発作」を起こした
先日のこと。用事があって出かけた「時の鐘と蔵の街」の駅ビル内のポポ…デッ…中古鉄コレ……西武371系クモハ377……KATOワラ1……ここで、筆者の身にはなぞの時間と記憶、そしていくばくかの金銭の消失が生じて……UFOと遭遇したのか。Xファイルか。おかしいな、ルパンを追っててとんでもないものを見つけてしまったあ、どうしよう。
どうして、「たまたま」「ふと思いついて」「ちょっとだけ」「ついでに」鉄道模型店に立ち寄った帰り道の電車のなかにいる私の手のなかは、中古の西武371系電車クモハ377(1両)と、KATOの「国鉄ワラ1型有蓋車2両セット」があったのだろう。店のレシートといっしょに。どうやら、なにかの発作を起こしたみたいだ。コワイですね、オソロシイですね。
店頭でこの組み合わせが並んでいるのを見て、ふと思ったのはクモハ377に有蓋車を牽引させてみたいな、ということ。「とっさに」「ついカッとなって」ではなくて、責任能力がある。東住吉署はいやや……クロやないか。実物でも311・371系電車は自動空気ブレーキだったからそれは可能だったろうけれど、西武鉄道には電気機関車がいたから、じっさいにはそんなことはしなかったろう。もちろん、それ以前の国鉄(鉄道省)でも。
そんなことは知っている。けれど、西武鉄道ではないところでならば……クモハ377(もとクモハ11423)同様に国鉄からの譲渡車であり、伊豆箱根鉄道にいた赤電塗装に塗られてよく似ているモハ66(もとクモハ12000)→コデ66は電車だけではなく、たしかバラスト敷設のために無蓋車を牽引することがあったのではなかったか。ふだん意識しないでいるそんな記憶、しかもじっさいには目にしたことはなく本やWeb上のどなたかの記事を読んだ程度の記憶しかないのに、そんな記憶(というよりも妄想)が脳裏にぱっと映像化されてしまったのだ。
ほんとうならば電車は両運転台で、もっと古い私鉄型電車であるべきだし、全金属製で2段リンクのワラ1よりももっともっと古い、木製で車掌室のあるワフなどのほうが似合うだろう。もっとも筆者は17メートル車向け鉄コレ動力どころか、いまだにNゲージの線路もパワーパックも所有していないのだが。
■伊豆箱根鉄道大雄山線は「17メートル旧型国電のメッカ」だった
さて、アラフォー以上のかたではないと通じなそうだけれど、ある程度まえまでは「なにかがたくさん集まっている場所」イコール「聖地」として、「なんとかのメッカ」という言い方があった。「聖地」あるいは「総本山」「御本尊」といえばいいのかな。いまは、ムスリムのみなさんに配慮してこの言い方はあまりしない。そういう表現をするときに「ローマ」とか「エルサレム」とかふつうは言わないものね。もちろん、筆者にもムスリムへの蔑視の意味はまったくないことはここで強調しておきたい。
そして、もうひとつ通じなそうなのが、伊豆箱根鉄道大雄山線はかつて西武赤電塗装で塗られた17メートル旧型国電で占められていたこと。大きく大別すると、ふたつのグループに分けられた。国電30・31・50系列の車体の特徴を残したグループと、相鉄2000系として近代的な全金属製の車体に更新がなされてその車体を持つグループだ。走行性能には大差はない。ここで取り上げるのは前者の、国鉄型の特徴を残したグループだ。
■小田原駅でいつも気になる存在だった
伊豆箱根鉄道大雄山線のこれら赤い電車は、相鉄2000系系列の車体を持つものをふくめて、小田原駅の駅頭で1996年(平成8年)まで見ることができた。東京近郊にあるのにこうした古い電車が遅くまで走り続けたのは、緑町駅付近に急カーブがあるために、通常の車体長20メートルの電車が入線できないため。そのためになかなか置き換えが進まなかった。
東海道線を下っていくと、小田原でときおり東海道線の列車に大雄山線の列車が隣接することがある。冒頭の写真は1985年(昭和60年)11月に113系電車に乗って熱海に行く途中に写したものだ。どうして覚えているかというと、あまり遠出をしなかった家族にしてはめずらしい遠出だったからだ。
しかもそれは、伊豆急2100系(リゾート21)の登場時に列車名の公募がなされて、それに応募したひとはたしか、もれなく伊豆急の伊東〜伊豆急下田の往復乗車券をもらえたはず。だからそのときは父親に連れられて、リゾート21に乗ることを口実にして熱海に出かけたのだ。そういううれしい旅行だったから覚えているのだろう。
1985年の段階でも、小田原駅の駅頭で見かける大雄山線の17メートルの赤い電車は、とても古めかしく見えた。いま見るとたいへんていねいに整備されてはいるのにね。黄色地に手書きの文字で書かれて、赤い矢印のある「▶小田原◀▶大雄山◀」という正面サボ(行き先表示板)が、なおのこと古めかしく思わせるのかもしれない。ものめずらしさもあって、古い電車が好きな少年である筆者はなにかで小田原を通るときはかならず大雄山線をチェックしていたものだ。
■いまだに大雄山にたどり着けず
中学生になっても鉄道が好きなままで、自分ひとりだけ、もしくは友人といっしょに、親の手をわずらわせずにあちこちの鉄道路線を訪問したいと思うようになった。それどころか自分でレンズ交換の可能な一眼レフカメラを所有して、リバーサルフィルムで列車の写真を自分でも撮ってみたいと思うほどに鉄道趣味に熱中し始めたころに、いちどだけ大雄山線をたずねている。
1985年の段階でも、小田原駅の駅頭で見かける大雄山線の17メートルの赤い電車は、とても古めかしく見えた。いま見るとたいへんていねいに整備されてはいるのにね。黄色地に手書きの文字で書かれて、赤い矢印のある「▶小田原◀▶大雄山◀」という正面サボ(行き先表示板)が、なおのこと古めかしく思わせるのかもしれない。ものめずらしさもあって、古い電車が好きな少年である筆者はなにかで小田原を通るときはかならず大雄山線をチェックしていたものだ。
■いまだに大雄山にたどり着けず
中学生になっても鉄道が好きなままで、自分ひとりだけ、もしくは友人といっしょに、親の手をわずらわせずにあちこちの鉄道路線を訪問したいと思うようになった。それどころか自分でレンズ交換の可能な一眼レフカメラを所有して、リバーサルフィルムで列車の写真を自分でも撮ってみたいと思うほどに鉄道趣味に熱中し始めたころに、いちどだけ大雄山線をたずねている。
1987年2月と中学生らしい整わない字でリバーサルフィルム(コダクローム200)の現像済みポジケースに書かれている。このときは、友人といっしょにいて、国府津電車区(当時。いまの国府津車両センター)で行われたクモハ40054と074の撮影会に行った帰り道だ。しとしとと寒い冬の雨がいつまでもやまず、ISO 200では当時の自分の腕ではシャッター速度をかせぐことができず、とても困った記憶がある。
その頃すでに旧型国電などの古い電車が好きだったことと、せっかく小田原方面まで行ったのだから、という理由で大雄山線を訪ねたはずだ。それでも、箱根登山鉄道ではなく、伊豆箱根鉄道を選んだあたりがまた我ながらシブい。
すでに代替の電車として5000系電車も走っていた。ステンレス車体になった第二編成もその日走っていて、ライオンズブルーの帯を締めたステンレス車体の電車には好感を持った。その後、親会社の西武鉄道でも似た塗装の電車が走り始めるとは、そのときには想像しなかったけれどね。
期待していた元国鉄車体の電車とは途中で交換したのだろうか。ポジを見ると編成は以下のようだ。しかもよく見ると、駿豆本線からやってきた車両だ。<小田原>モハ65ーサハ83ーモハ64<大雄山>。両端のモハ64と65はもと国鉄クハ16400番台を電装化、正面非貫通化したもの(モハ64はクハ16452、モハ65はクハ16491)。電装化されたさいに新設されたパンタグラフは後位にある。いっぽう、中間のサハ83は、もと国鉄クハニ19003(さらにたどれば、モハ30141とのこと)。これはもともとはダブルルーフの30系列だ。円屋根化されていても、窓の大きさが小さくて幅が狭い。
その頃すでに旧型国電などの古い電車が好きだったことと、せっかく小田原方面まで行ったのだから、という理由で大雄山線を訪ねたはずだ。それでも、箱根登山鉄道ではなく、伊豆箱根鉄道を選んだあたりがまた我ながらシブい。
すでに代替の電車として5000系電車も走っていた。ステンレス車体になった第二編成もその日走っていて、ライオンズブルーの帯を締めたステンレス車体の電車には好感を持った。その後、親会社の西武鉄道でも似た塗装の電車が走り始めるとは、そのときには想像しなかったけれどね。
期待していた元国鉄車体の電車とは途中で交換したのだろうか。ポジを見ると編成は以下のようだ。しかもよく見ると、駿豆本線からやってきた車両だ。<小田原>モハ65ーサハ83ーモハ64<大雄山>。両端のモハ64と65はもと国鉄クハ16400番台を電装化、正面非貫通化したもの(モハ64はクハ16452、モハ65はクハ16491)。電装化されたさいに新設されたパンタグラフは後位にある。いっぽう、中間のサハ83は、もと国鉄クハニ19003(さらにたどれば、モハ30141とのこと)。これはもともとはダブルルーフの30系列だ。円屋根化されていても、窓の大きさが小さくて幅が狭い。
いずれもアルミサッシ化されたり、パンタグラフが後位にあるなど、それなりに近代化されている。ひとによってはこうして原型を崩していくところが嫌かもしれないけれど、私はこうして手を加えながらも使い続けるという姿勢は好ましく思う。正面窓は固定化されないほうが、そりゃあより好ましいけれど。もっとも、西武鉄道に最後に残された311・371系のサハ1313、1314、1336で私がたんに見慣れているだけかもしれない。
相模沼田〜飯田岡で撮影したことはまちがいない。でも、どの駅で降りたのか、どの列車に乗ったのかもいまとなってはまったく記憶にない。だいいち、大雄山まで行っていないはずだ。いまなら、終点まで行くはずだしもっと日暮れまでしつこく撮るだろう。三脚だって持っていたのだ。けれど、おそらくは寒くていやになってしまったのではないか。中学生でお金も持っていなかったのかもしれない。
この日は午前中に国府津でクモハ40054と074を撮影し、午後にこうしてもとクハ16ともとクハニ19を撮影できたのだから、それでけっこう満足してしまっただろう。
いまもっとも惜しまれるのは、走っている車両が気に入ったはずの大雄山線の撮影はこれっきりで、これら旧型電車の終焉も見ず、代替した5000系電車にもそれなりの好感は抱いているのに、これ以降いまだに未踏だということ。さいきんも、工事用電車のコデ165や、5000系電車の塗装変更も行われているにもかかわらず。
相模沼田〜飯田岡で撮影したことはまちがいない。でも、どの駅で降りたのか、どの列車に乗ったのかもいまとなってはまったく記憶にない。だいいち、大雄山まで行っていないはずだ。いまなら、終点まで行くはずだしもっと日暮れまでしつこく撮るだろう。三脚だって持っていたのだ。けれど、おそらくは寒くていやになってしまったのではないか。中学生でお金も持っていなかったのかもしれない。
この日は午前中に国府津でクモハ40054と074を撮影し、午後にこうしてもとクハ16ともとクハニ19を撮影できたのだから、それでけっこう満足してしまっただろう。
いまもっとも惜しまれるのは、走っている車両が気に入ったはずの大雄山線の撮影はこれっきりで、これら旧型電車の終焉も見ず、代替した5000系電車にもそれなりの好感は抱いているのに、これ以降いまだに未踏だということ。さいきんも、工事用電車のコデ165や、5000系電車の塗装変更も行われているにもかかわらず。
なによりも、私は小田原にほど近い大学に1990年代に通学していて、カメラもあったしレンズも揃えていたのに。いまはともかく、大学生の頃は鉄道に興味をなくしてしまったこともさることながら、「遠くないからいつでも行ける」とたかを括っていたのだろうか。若さゆえのあやまち、っていうやつだ。いつでも行けると思いながら三十年以上経つなんて。そういう「やり残したこと」を、これからはひとつずつつぶしていこう。
【撮影データ】
Nikon F-301/Sigma 35-70mm F2.8-4/KL(Kodachrome 200)/伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田〜飯田岡、1987年2月
【撮影データ】
Nikon F-301/Sigma 35-70mm F2.8-4/KL(Kodachrome 200)/伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田〜飯田岡、1987年2月