2021年3月5日金曜日

【写真術について思うこと】夢想を写真にできないかと考えながら


■ファンタジーで遊ぶということ
昨年から続いているあれのために困されるのは自由に遠くへ外出しづらいから。首都圏ではまだ緊急事態宣言による不要不急の外出自粛要請が延長されてしまった。健康維持のための散歩のついでにひとの少ない場所を求めて自宅周辺を出歩いてはいても、撮影目的の遠出はさすがにしづらい。自分自身がもし罹患してしまったさいに重症化リスクの高い基礎疾患のある中年でもあるし、大切な試験をひかえている親族もいるので。

そういう理由で自宅周辺を歩く程度の暮らしも、正直にいうと飽きてしまう。体調不良で長期間動けなくなる経験が多い私でも飽きる。これを乗り切るには、ファンタジーで遊ぶことなのだろうなと考えている。

「ファンタジーで遊ぶ」というのはどういうことか。私の意図するのは「想像力をふくらませて夢想で遊ぶ」という意味だ。いいかえれば、なにかしらの趣味を大切にすることといっていい。

子どものころにほとんどのみなさんも、ままごとやなにかの「ごっこ遊び」をしたはずだ。砂場でなにかを目の前にある砂から、なにか壮大な建築物を建造しているつもりになって夢中に遊んだ経験もあるはず。

趣味のあるみなさんは、対象を変えながらいまでもそれを続けていると思う。絵を描くこと、漫画や小説を書くこと、模型を作ること、料理や菓子作り、工作、手芸、DIY、作曲など、なにかを想像して作り上げるようないろいろな趣味がある。いずれも、作り手がさまざまな想像を巡らせて生み出すもののはず。

■写真術とは目に見えるものを「見たままに」写す行為だけではない
いっぽう、私たち写真を撮る人間もまたカメラという道具を使って撮影者の夢想を絵にすることができるはずだ。日本語で「写真」などという訳語が当てられているのは不幸だ。まるで「目の前にある真実を写す行為」であるかのように思われがちだけど、写真術とはなにも目の前にある事物や現象を「目に見えているのとそっくりそのまま」記録するためにあるわけではない。photographyということばはたんなる「光で描いた絵」でしかないはずなのに。

写真に携わるものはおそらくはみな被写体を目にして、それをどう撮ればその被写体の姿なり、見て思ったことをよりよく見る者に伝えられるかと考えて構図を考えて、レンズを選んで必要ならば交換し、露出、ホワイトバランス、絵作り設定を工夫して撮影するはず。そうやって撮った写真をレタッチしてプリントするなりSNSに投稿するにも、撮ったもののうち自分の撮影意図にうまくマッチするものを選んで行って他人に見せている。被写体の姿を撮影者の意図通りに伝えることができない写真はこの過程でのなんらかの取捨選択にミスマッチがある。

いろいろと選択をしながら撮影し、さらに選択を続けて見せる一連の行為すべてが写真術に含まれる。この一連の行為は「撮影者の意図に合うもの」を自分で選択して写真を作り上げているのだから、撮影者の夢想を具現化しているいっていいはずだ。「目に見えているものそっくりそのまま」ばかりではなく、現実に見える姿とはことなる「こうあってほしい」という姿に写真に仕上げることもできる。ようは使用意図による。

ときに写真をラッセンの絵のように、あるいは流行しているアニメの背景画のように仕上げる過剰なレタッチが話題になることもあるけれど、報道写真ではないのならば、それを否定するのも違和感がある。好き嫌い、自分もやるかどうかはまたべつの問題だ。


■目に見えないものをいかに想像させるか
写真を趣味にしている方は、自分はなぜ写真を撮るのかという理由を意識しているだろうか。基本的には大多数のみなさんのそれは「目についた興味深いものごとを写真に残したいから」だと思う。だから、被写体となるのは美しい風景や人物、可愛い子ども、動物、めずらしい列車、めったに見られないもの、旅行先で目にしたものなどであり、あなたにとっての「なにか興味を引いたもの(something interesting)」であるから写真として残しておくために撮るのではないか。

美しさとは、それぞれで基準となるものには差がありそうだけれども、判断基準としてはわかりやすい。美術家出身の写真家のなかには「美しいものしか写真にできないならば写真術はつまらない」と試行錯誤する写真家もいる。筆者自身はそれを一理あるとは思いつつ、だからといって醜悪な被写体を意図的に写したりはしない。ドキュメンタリストではないからだ。

とはいえ、既存の「美しいとされているもの」ばかりを写すのはつまらないなと思う。どこに行けば美しい風景なりがあるかをどれだけ知っているかどうかも風景を撮る職業写真家には必要なものではあるだろうけれど。筆者は風景専業写真家でもない。だから、どんなものにも「美しく見える見せ方」があるのではないかと思い、被写体ごとにできるだけそれを探そうと考える。筆者が写真にしたいものは「なにか美しいもの(something beautiful)」ではなく「なにか興味を引いたもの(something interesting)」という言い方をしたい。

かつて流行った「インスタ映え(instagrammable/instagenic)」という言葉への解釈の問題にも似ている。流行している特定の事物そのものだけがインスタグラムで「映える」とされているかのように思われるのが、じつにつまらないと筆者は思っていた。「映える」とされる事物もへたくそに撮ったら「映えない」のではないかとも。

そこで、筆者はできるだけ日々の暮らしのなかで目にしたありふれたものばかりをきれいに見せることを意図してインスタグラムに投稿し、フォロワーにどう思われるかということを行っていた。筆者のアカウントはそんな写真ばかりだ。もちろん、美しく見せる工夫はしている。「スマホとインスタグラムのアプリや各種プリセットを使わないで、レンス交換式カメラで撮影してAdobe Photoshopだけでなんとかする」こともやってみた。

その結果わかったのは、もちろん、絶対的に強いのは被写体自身が美しいものではあるけれど、「映えないものでも映えるように見せること」は可能だということ。ただしフォロワー数はアカウントの持ち主自身が見せているキャラクターにも依存する。感じが悪く見えるアカウントにはフォローもいいねもされないからだ。


■写真術にできることはたくさんあるはず
something interestingを求めて出かけることが写真術とセットになっているひともいる。どこかに遠出して写真を撮り、そこでしか味わえない飲食をすること自体の楽しさは筆者にも理解できる。気分転換のためのレジャーだものね。

ただし、そのことにとらわれすぎて、外出というイベントのときにしか写真を撮らないのは残念だと筆者は考える。それはそれで楽しみたいが、もし外出できないのならば身の回りを観察してみようよ、とも。遠くに外出する行為と写真を撮る行為はわけて考えてみてほしい。いつも通る道を変えて見るだけでもときにはちょとした発見がある。いつも通らない時間に通るのでもいい。something interestingは日常生活のなかにも気づいていないか、慣れてしまってなにも感じないようになっているだけで、日々の暮らしにも隠れているはず。とても難しいとは思うけれど。

筆者はそう思って遠出しなくてもカメラを毎日持ってなにかしら写している。仕事で使わなくても必ずシャッターを切る。カメラやレンズを通して観察したものには、ときに思わぬ発見がある。読書や映画鑑賞からもヒントを探す。


絵画とことなり写真術は被写体が存在しないと写すことができないし、そのためにはどこかに出かけるなりして被写体と対面しないと写すことができないというのはたしかだ。だが、外出ができないならば、身近にあるいろいろなものを切り取って写して並べて、そこからなにかを表現することができないかな。そんなことをいつも考えているよ。

素敵な暮らしをしているわけではなくても、暮らしのなかにある素敵なものを写して見せていけば、「素敵な雰囲気」を描くことができるのではないかとも。

こんなことを昨年末から考えているのは、劇場版『鬼滅の刃』無限列車編を昨年秋に観に行って、劇中でハチロク(8620形蒸気機関車)が夜に走るシーンを観ていたら、夜の闇のなかを疾走する蒸気機関車牽引の列車を目にしたくなってしまったことがきっかけだ。いま日本国内で蒸気機関車列車の夜間走行はほとんど目にできない……だがしかし、そういう印象をほかのなにかで描くことはできないだろうか、と。鬼に襲われる悪夢を描きたいわけではないけどね。

いやまてよ。考えたらむかしからこうして、会いたいひとに会えないとき、遠くに存在する被写体を撮影できないときにも、それがまるで目の前に存在するかのような写真を作り上げることはできないかな、などと考えていたわ、私は。編集というのはそういうことかもしれない。

長々書いたものをまとめると、写真とは「なにを撮るか」という被写体選びだけが大切なのではなく、写真の撮り方、あるいは見せ方で被写体をいかようにも見せることができるはずだということ。ここに写真術の奥の深さがあるとはいえないだろうか。

そこで大正時代から昭和のはじめを感じさせるような被写体をいろいろとまとめてここに見せているわけだ。令和の世に大正時代を写そうとは、よもや、よもやだ!

【撮影データ】
Sony α7II, Nikon Df/AI Nikkor 35mm f/1.4S, AI Nikkor 85mm F2S/RAW/Adobe Photoshop CC 2021