さる2022(令和4)年4月26日(火曜日)に、西武新宿線系統で運用されていた2000系電車のうち、1977(昭和52)年から1979(昭和54)年にかけて製造された、側面に「田の字窓」(下段上昇・上段下降の二段式窓)を持つ初期製造車のなかで、最後の8両固定編成であり、行き先表示器が方向幕式のままだった2007編成が横瀬車両基地に向けて廃車回送を行った。この回送は同時に事前申し込み制の有料見送りツアーでもあった。2007編成が横瀬に到着したことで、2000系の初期車の8両固定編成がすべて姿を消した。
したがって「2000系初期車だけで組成された8両『固定』編成(1号車から8号車まで貫通している編成)」が営業運転を行う姿を見ることは、もうできない。2000系自体は性能の同じ新2000系がまだまだ活躍を続けるし、残されている2000系初期車も編成を組んでとうぶんは走る。
文中に「」を多く用いて意味を限定的にしているのは、本稿執筆時の4月27日現在、2000系初期車には6両編成が3本と2両編成7本が残されているそうなので、これらを組み合わせれば「新宿線系統で初期車だけの8両編成・10両編成」は理論上は組成可能だから。ただし2両固定編成を2本以上重ねて作る8両編成や10両編成はさすがにめずらしく、もしそういう編成が組成されたら沿線のヲタが殺到するような珍事ではある。
2007編成に話を戻すと、昨年秋に8両固定編成の初期車である2001編成が廃車されてから、最後の初期車の8両固定編成となり、行き先表示が方向幕のまま残されている2000系として、古い車両が好きなファンからは注目を浴びていただろうか。
私自身は地元の電車である新宿線の2000系に対して、じつに怠惰に眺めてしまうところがある。物心ついたときから走っていたありふれた存在であり、いつでも撮れると油断しがちだ。むかしの国鉄103系電車に対する態度みたいなものか。だから、2000系初期車を目的に撮影に出たことは思えば数えるほどしかない。細かく見ればいろいろなバリエーションもあるのに。「自分が線路際にいて、運よく遭遇できたらよろこんで撮る」という、じつにふんわりとした扱いをしていた。
それでも、2007編成が最後の8両固定編成になった昨年秋からは、動向を少しは気にしていて、遭遇するたびに写すように心がけてはいた。スマホアプリもあるし。
1988(昭和63)年11月撮影。 このころは前面窓のHゴムが黒いものにすでに変わっていた。 だが、電気連結器とスカートがなく白い方向幕ですっきりしている この2カットはフィルムカメラのNikon F-301で撮影している |
左の701系電車が西武線から姿を消してずいぶん経つ |
■「初物づくし」の異色の電車
2000系は前述のように、1977(昭和52)年から1979(昭和54)年にかけて、当初は6両固定編成で西武所沢車両工場(当時)で新造された。この電車は西武鉄道が新造した通勤型電車としては初物づくしの要素を盛り込んだ、異色の電車だった。まず20メートル車体に4扉の客用扉というスペックは、戦後国鉄63形電車の割当を辞退して、その後63形事故車を授受して1953(昭和28)年から1954(昭和29)年にかけて再生した401系電車(初代)以来だった。
さらに正面に貫通路を持ち、界磁チョッパ制御で回生ブレーキ併用全電気指令式ブレーキ(HRD-1R)を備えた6両固定編成という通勤型電車は、昭和50年代(1970年代)の大手私鉄にはすでにめずらしくはなかったものの、当時の西武鉄道ではほかに存在しなかった。つまり西武鉄道では当時あたりまえのように行われていた既存の他形式との混用が、意図されていなかった。
このスペックは当時の新宿線の混雑緩和に対応するためのものだったようだ。旧西武鉄道村山線として建設された新宿線は、数キロ離れて並走する旧武蔵野鉄道(池袋線)と国鉄中央線(当時)に比べて駅間距離を短く設けて駅を数多く配置することで、多くの乗降客を得ようとしていた。そのために、混雑率が高くなり列車の増発を行うには、短い駅間での所要時間短縮と、4扉化による停車時間の短縮が必要になった。そこで、高加減速性能を持つ4扉の回生制動を備えた電車が向くのではないかという試行錯誤の一環だったのだろう。登場当初は新宿線系統の各駅停車運用におもに用いられていたという。
さらに、新宿線の混雑解消と西武新宿駅の新宿駅乗り入れを意図した地下化の計画もあり、それを見越して正面に貫通路が設けられたようだ。界磁チョッパ制御の採用も、地下路線での発熱量を純然たる抵抗制御よりは抑えることができるからという理由があったのかも。
西武鉄道では戦後、国鉄の17メートル3扉車の被災車両を大量に導入して再生して311系電車として竣工させて以来、通勤型電車の主流は501系(初代、のちの351系)電車からは「3扉で客用扉のあいだに窓が4つ並ぶ」デザインであり、451系電車、411系(のちの401系)電車、571系電車などの増結用の電車を除いては正面窓が2枚の半流線型で非貫通だった。主電動機出力や駆動方式のちがいはあっても、制動方式を旧式な自動空気制動に統一させてラッシュアワーには異形式同士で混用されていた。国鉄の旧型電車で用いられていた制御装置や主電動機、台車を購入して台枠から上のみに軽量車体を新造するのは、新造車両のコストをできるだけ抑制する工夫だった。
その「方針」を最初にくずしたのは、1969(昭和44)年の秩父線開業時に新造された101系電車だった。外観は従来の西武鉄道の通勤型電車同様に、3扉で扉間に4枚の窓、正面非貫通で半流線型の2枚窓という意匠を踏襲しつつ、山岳路線向けに下回りは150kwの主電動機と応答性の高い発電制動付き電磁直通空気制動(HSC-D)と勾配抑速制動を備えた、高出力の電車だった。101系ものちに勾配抑速制動の使用停止改造を行った編成を除いては、101系同士でしか編成を組成できず、外観や扉配置が似ていて電磁直通制動(HSC)化改造をされた701系列と混用することはできなかった。
2000系はさらに外観も扉配置も改めたために、登場時には6両固定編成しかない非常に異色な電車だった。そして、通勤型電車として形式名がはじめて千の位になり、一の位も「0」の形式名になった。新宿線の輸送には4扉の2000系は想定された効果を上げたのだろう。1983年(昭和58年)には既存の6両編成の編成替えと増備を行って、一部編成の8両固定編成化がなされ、増結用の2両編成も登場した。この時点で、2000系は8両編成と10両編成を組むことができるようになり、運用の制約が減った。
さらに、1988(平成2)年には外観を変えた新2000系とよばれる車両の増備が始まった。この電車は新宿線系統で主力だった701系列の置き換えが意図された。西武所沢工場だけではなく、東急車輛製造(当時)にも外注された。そして池袋線系統でも用いられるよう大量増備が進んだ。そうして3扉車を駆逐していき、ついには西武鉄道の主力電車になった。これ以降の通勤型車両が、101系の機器再利用更新車だった登場時の9000系電車をのぞいて抵抗制御をやめて、4扉車として登場するなど、平成以降の西武鉄道の車両の基本方針を示す標準型車両になったといえるだろう。
■通勤通学輸送を支えた
新2000系は4両編成も製造された。3M1T編成なのは不思議だ。とにかく、その結果として2000系グループには2両、4両、6両、8両の編成が存在することになり、編成組成の自由度が大いに高まった。当初は秩父線に乗り入れを行わないという運用上の制限があったものの、変電施設の改良でそれも解消された。走行性能が同じ2000系は新旧かまわずに組み合わせて運用されるようになり、車両の外観のちがいがあっても編成を組んで用いる「西武鉄道の通勤型電車らしさ」も見せるようになった。
2000系は平成年間の通勤通学輸送を支えたといっていい。多摩川線と西武有楽町線、山口線以外ではどこででも見かけるような存在になった。そして平成年間が始まるころに私はいちど鉄道趣味をやめてしまったから、身近すぎる存在の2000系をカメラに収めたのはそう多くはない。
だから、2007編成の廃車が2022(令和4)年4月と予告され、さらに車体に記念ステッカーが掲出されるようになって、ようやく重い腰をあげて近隣で撮影したというわけだ。
こうしてみると、通勤通学でさんざん利用した2000系というものにたいして私には私なりの愛着はあったし、8両固定編成の引退ということへの感慨もある。さすがに「まだ新しい電車」だと思うことはないものの、連続立体交差化を目的として中井から野方にかけて地下化工事が進められている新宿線を走ることなく引退してしまったのだなあというように。
同時代に製造されて同様の主電動機を持つ東急8500系電車も引退が予告されている。「昭和50年代の電車が古い電車」として扱われるようになるとは、私も年をとったということだ。
【撮影データ】(特記を除き)
Nikon Df, D7200/AI AF Micro-Nikkor 60mm f/2.8D, AI AF Micro Nikkor 105mm F2.8D, AI AF Nikkor ED 300mm F4S (IF)/RAW/Adobe Photoshop CC