2018年4月2日月曜日

【西武多摩湖線1986年】西武351系電車355編成のこと

西武351系電車355編成(1986年4月、以下同じ)

■萩山を通るたびに思い出すのは
小平で西武拝島線の列車に乗り換えて萩山に着くと、いまでもつい気にしてしまうのは1番線にいる多摩湖線の電車のこと。「今日はなにが停まっているかなあ」と思って1番線を観察する。それはもちろん、私のヲタ気質のなせるわざによる。というのも、多摩湖線には私の子どものころから中年真っ盛りのいまになっても、たいていは本線系統では見られなくなったやや古い電車が、代替わりしながら用いられているからだ。

ただ、いいわけをさせてもらうと「あ、萩山だ!」とついキョロキョロしてしまうのは、多摩湖線の電車を見たいから。そうではあるけれど、私がものごころついてから萩山駅の構内配線や雰囲気があまり変わらないということも原因のひとつだと思うのだ。

拝島線列車から多摩湖線を見るとその奥にはUR賃貸住宅が並ぶあの感じが、変わらないままだ。そこにある店が変わったこと、北口には大きなマンションが建ったことはもちろん知っている。それでも、たとえば、高架複々線化された石神井公園や構内踏切が廃止されて橋上駅舎化がなされた武蔵藤沢のような、以前の面影がまったくなくなった駅とはことなり、昔のようすをすぐに彷彿させるから、いつまでも子どものころと同じような振る舞いをしてしまうというわけだ。

ええ、いいわけです。「子どものころからあまり変わっていないものごとを見て、当時と同じ振る舞いをしてもかまわない」わけではないからね。

クモハ355

クモハ355

■たぶん、じっくり撮影できたはじめての日だったから
萩山に話を戻す。西口には電留線があり、ときおり運用のあいまに列車がそこで休んでいる。多摩湖線のホームにお目当ての電車がいないなあ、と思って下り方向に目をやると、電留線にいることがある。運用パターンをきちんと把握していないので。この10年ほどはたとえば、新101系電車の黄色い263編成や、以前のリバイバルカラー編成261編成(いまは伊豆箱根コラボ塗装)などを撮りたくてでかけて、その電留線に目をやって「ああ、いるのだな」と思うわけだ。

思い返せばそのようすからして、30年以上そう大きく変わらない。それな! つまり、30年以上前から、この電留線の存在をふくめて雰囲気が変わらないままだからこそ、あの思い出深い日をついつい思い出してしまうというわけだ。繰り返すけど、いいわけだと自分でもよーくわかっているからね。論理の飛躍が大きすぎるけどな。

その思い出深い日とは、1986(昭和61)年4月のソメイヨシノが散ったあとのころ。父親のカメラを借りて多摩湖線に唯一残された351系電車を撮影しにやってきた私は、電留線に351系電車355編成が停まっているのを見かけて、そのようすをじっくり撮影したのだ。

この赤い電車(以下、赤電)である351系は非冷房で吊り掛け式駆動、自動空気ブレーキという旧性能車であるだけではなく、車体長17メートルと1両あたり3メートル短い電車であることも、そのころにはすでにめずらしかった。車体長17メートルの電車どころか、旧性能車である赤電はすでに新宿線や池袋線の本線系統では用いられなくなっていたからだ。

ところが、当時の多摩湖線国分寺駅のプラットホーム有効長が構造上短いために、より新しく車体長の長い20メートルの冷房装置を搭載した電車では2両編成までしか入線できず、2両編成では朝晩のラッシュアワーで乗降客をさばききれない。単線ではあるがすでに複数の交換設備が設けられていた。だが、それ以上の交換設備を増やすことと増便も不可能だ。

ところが、17メートルの車体長であれば3両編成でも入線できた。そのために、そのホーム改良工事が終わる1990(平成2)年まで、古くなった351系がやむなく用いられていた。17メートルの車体長であるために本線系統を追われたのに、晩年はその車体長が理由で用いられ続けたわけだ。

そのころの私はNゲージでこの電車を作ってみたいと思っていたので、床下機器の並び方や配管のようすがわかるように記録しておきたかったのだろう。だから、この電留線で好きな電車をじっくり撮影できたということが、大人になったいまでも忘れられないほどうれしかったにちがいない。

もっとも、マニュアル露出とマニュアルフォーカスしかないのはもちろん、52mmのヘキサノン標準レンズだけ所有していない、エキザクタマウントに似た感じのマウントを持つコニカの一眼レフを使い「絵になる構図」というものもまったくわかっていなかった少年は、床下機器を部分ごとにアップで撮るということをしていなかった……フィルムの残り枚数もそう多くなかったのかもしれない。36枚撮りのカラーネガフィルムを1本買って出かけることしかできなかったから。それでも「露出を外さずにピントもきちんと合う写真」がいつも撮れなかった私としては、きっとこれが精いっぱいだったのだと思うのだ。

■元国電を挟んだ編成
さて、351系は中間に国鉄……というよりも、戦前の木造車だったころを考えればもと鉄道省から譲渡された戦前の電車を改造した中間車を挟んで走っていた。両端のクモハ351形は戦後の西武鉄道初の自社系列工場製のオリジナル電車で、それもまた興味深いのだが。戦前製の電車は1986(昭和61)年となってはさすがに珍しくなっていた。

この中間の戦前製中間車の由来はふたつあり、掲載している355編成に挟まれたこのサハ1336は、もと国鉄クモハ11447だった車両だ。おおもとは、木造の電車を鉄道省で車体を半鋼製車体に載せ替えてうまれた50系電車であり、改修工事とモハ11400番台への改番、さらにクモハ11400番台への改称が行われたのち、廃車になってから西武にやってきた。西武にやって来た当初は371系クモハ378と名乗った。その後、電装解除がなされ、さらに運転台も撤去されてサハ1336になった。

いっぽう、ほぼ同じ形態をしたほか2編成の中間車(サハ1313とサハ1314)は、国鉄の木造電車サハ25が戦後に西武鉄道に譲渡されてから、1953(昭和28)年に50系(同年にモハ11400番台と改称)と同じ形態の半鋼製車体に西武所沢工場で作られて載せ替えられた、クハ1313と1314だった車両だ。のちに運転台が撤去されてそれぞれサハになった。

両グループのいずれも、この写真を撮ったころには車内は近代化改装がなされていた。内壁も床も木製の装飾ではなくなり、室内灯も蛍光灯で窓はアルミサッシで、外観はウインドウシル・ヘッダー(窓上下の出っ張った補強用の帯)があり、古めかしいままではあっても内装は冷房装置がないくらいで、そう古めかしい感じはしなかった。

これら3両とも外観はとてもよく似ている。だが、趣味的には細かいちがいがある。写真のサハ1336だけにはあちこちに溶接ではなくリベット(鋲)が残されていること、ドアの形状、運転台の跡のウインドウシルの途切れ方(残され方)のちがい、台枠の形状のちがいか車端部の裾のかたちがことなること、屋根上の通風器が前後のクモハ355、356と同じで、昭和の通勤電車に標準的に見られた丸くて大きいグローブ型ベンチレーターだったことが興味深かった。

いっぽう、西武で車体を載せ替えたサハ1313と1314にはリベットはなく、通風器はより古めかしく見えるガーランド形ベンチレーター(十字型)で、大小二つの大きさのものが載せられていた。ドアも窓の下に凹みがあるプレスドアだ。

サハ1336

サハ1336

サハ1314。
この写真でもサハ1336とは屋根上の通風器の形状、
ドアがことなることはわかっていただけるかと思う

■両端のクモハにもディテールのちがいあり
なお、両端のクモハ355と356にも、ほかの2編成とはわずかな外観上のちがいがあったようだ。「ようだ」と書いたのは当時の私はそれに気づかず、その後インターネットの時代になってから、おもに模型製作をされるみなさんのWebサイトやブログで知ったからだ。

その差とは、正面の4つの手すりの並び方がここにアップしたクモハ355と356、およびクモハ353、クモハ354では上下でことなる(上の段は左右にやや狭い位置に配置されている)のに対し、クモハ351、352では上下の幅が同じというところ。また、クモハ355、356は抵抗器が古めかしい形状で数が多いのに比べ、ほかの2編成ではより新しいものに交換されている。

こう書いても、鉄道に興味のないひとにはちっともおもしろくもなんともないだろう。とはいえ模型化するしないにかかわらず、こういうディテールの差を気にするのが趣味、あるいは、ヲタ的視点というやつではないか。

好きな異性のメイクが変わったとか、前髪のセットを変えたことに気づくのとそう変わりはないはず。人間の変化のほうがもちろんいい。ほめたらよろこんでもらえるから。電車をほめても反応してくれるわけではないからね。

古い電車になればなるほど、工場で改修されるなどして同じ形式でも一両ごとに細部にちがいが生じてくる。こういうところが古い電車趣味のだいご味だろうか。マニアは形式ではなく車番で語るようになるのです。

■戦前は江戸時代と同じくらいリアリティを感じづらい
とはいえ、そのころの私にはこれらのディテールの差よりもまず、本でしか見たことのないような戦前の電車が走っていたことが興味深く思えた。

1986(昭和61)年とは太平洋戦争の終戦から50年を経てはいなかったし、226事件を都心に野次馬しに行った祖父も、大陸に出征した親戚も存命ではあった。それでも、オイルショックのころに生まれた少年(つまり、当時の自分)には太平洋戦争も226事件も、ペリーの黒船襲来や江戸時代、南北朝時代と同じくらいリアリティがなかったはず。だからこそ、古い電車がふつうに走っているというところに、なにやら興味があったのかもしれない。

まあ、リアル中2でもあったしね。覚醒のときはいまこそ来たれり! というところだったのかな。

私は成人したころから、毎年春先にいまひとつ調子を崩しがちだった。今年はひさしぶりに不調ぎみで、撮影にこの春は出られないでいる。そこで、撮影のネタを探して自分の気持ちをアゲたくて、むかしのネガをひさしぶりに眺めているというわけだ。

※おことわり、いずれも旧ブログおよびかつて公開していた筆者のFlickrアカウントにてアップしていた写真の再掲載です。ひさしぶりに多摩湖線を訪れてみて、むかし撮った写真をどうしたっけ……とふと思い出したので、あらためて記事化しました。

クモハ356

クモハ356

クモハ351。正面窓下の手すりの配置がことなる

横瀬車両基地に保存されているクモハ355車内

1990(平成2)年6月当時の広告が残されているところがおもしろい

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【撮影データ】
Konica FP/Hexanon 52mm/Fujicolor HR100/Nikon Super Cool Scan 4000ED/Adobe Photoshop CC 2018(1986年4月撮影)
保存車クモハ355の車内は2009年10月に横瀬車両基地にて撮影。Nikon D2X/AI AF Nikkor 35mm f/2D