先日Twitterで話題にもしたが、秩父鉄道の有料急行『秩父路』号に1992(平成4)年まで使われていた300系電車のうち、両端の制御電動車デハ300形の奇数偶数の両車の運転室次位の客室窓には、二本の保護棒が渡されその上には保護板が設けられていた。過去に投稿した写真にも写っている。ただし、熊谷方のデハ301の助手席側の保護板は1985(昭和60)年の写真では取り外されている。
DT20形を改良したとされるNA-4P形台車の写真だが 画面上部にタブレット保護棒と保護板が写っている |
おそらくこれらは、1959(昭和34)年の新製後しばらくしてから、秩父鉄道側で装備したようだ。グーグル検索で見つけたネット上にある落成直後の試運転時の写真にはこれらは装備されてはいないが、関係者の方に以前閲覧させてもらったことがある昭和34年9月に日本車輌東京支社と三菱電機の連名で制作された冊子には、保護棒と保護板が装備されている写真が掲載されていた。試運転を行った結果、保護棒と保護板を設けるべきだという結論になったのだろう。
ただし、私の手元にある写真には許諾の問題上、上記以前に撮影されたインターネットに公開できるものがない。だから、いつからこれらが設けられているかをみなさんに証明する手立てがない。気になる方はグーグル検索をしてみるといい。申し訳ない。私の写真を勝手に使っているページも出てくるよ。不正な無断使用なうえに、撮影もスキャニングも画像処理もみんな下手くそな写真に混ぜられていて、ものすごく不愉快なんだ。非常に強い負の感情を抱いているからな。ぜってー許さねえ。
この保護棒と保護板は、300系電車の運転士が通過駅でタブレット授受を行うさいに、客室窓および乗客を保護するために設けられたものだ。じっさいに私はそれを何度もこの目で見ている。どちらかというと、客室窓から乗客が手を車外へ伸ばすことを防止するためのものではない。もしそうならば、すべての窓に保護棒が設けられていただろう。また各駅停車の普通列車であれば、駅員と乗務員はタブレットを停車時にやりとりするので、投げて渡す必要がない。普通列車に用いられる車両には保護板が設けられていないところからも類推できる。
あ! いま変な声が出そうになった。2022(令和4)年にもなると鉄道用語の「タブレット」の意味をご存じない方が、もしかしたらいるかもしれないな。
ねんのために書いておくとタブレット(英:tablet)とは、小さな板状のものという意味だが、ここではiPadのような「板状のコンピューター端末」ではないし、「錠剤」でもない。単線区間内の1区間に1列車のみの通行を許可する通行票として交付され、信号機の表示を変更させるために用いた金属製の「通票」の意味で用いている。受け渡しに便利なように腕を通す輪(キャリア)のついたケースに収めてやり取りを行う。さらにくわしくは各自検索されたし。
ここで気になることがある。それは、300系電車は1969(昭和44)年から有料急行『秩父路』号の専用車両として運用を開始しているが、それより以前にも秩父鉄道には一部の駅にしか停車しない優等列車が存在したのだろうか、ということ。このあたりがわからない。
中間の付随車(サハ351および352)の増備は1959(昭和34)年の落成当初から想定されていた。前述の冊子に「現在はMc-Mc'の2両編成だが、将来的にはMc-T-Mc'の3両編成でも運転できる」むねが記されている。実際に中間車が増備されて3両編成化されたのは、1966(昭和41)年だ。さらに、有料急行『秩父路』号が走り始めたのは、西武秩父線が西武秩父へ延伸を果たして、特急レッドアロー『ちちぶ』号が走り始めたのと同じ1969(昭和44)年。落成から有料急行への充当まで10年間の時間差がある。
なお、秩父鉄道の有料急行『秩父路』号が走り始めた理由は類推するほかないが、西武秩父線の開業による乗客の増加への対応、西武秩父線よりも遠回りの、熊谷から寄居を経由して秩父地方を結ぶ従来ルートに速達列車を設けることで、従来ルートの存在感の向上を意図したのではないかなど、いろいろな理由が考えられそうだ。
■100形電車の運転台は中央にあった
さて、1988(昭和63年)まで運用されていた100形電車に話を移す。この電車は新造した車体に開業時の電車から台車と強化した主電動機、電装品を転用する、木造車体の電車の台枠を利用するなどして、1950(昭和25)年から1954(昭和29)年にかけて日本車輌東京支社で製造された。あれこれと手を加えられて1988(昭和63)年まで走り続けた昭和の時代の秩父鉄道の主力電車だったが、運転台が中央に設けられているという特徴があった。
武州中川を出発した三峰口行き列車。 運転士が中央にいることと構内踏切を渡ってすぐの側を 走っていることに注意されたい。つまり右側通行だった |
おそらくこの電車が用いられていた当時、秩父鉄道線内では自動信号化が進められていて、それによって左側通行にされた交換駅と、右側通行のままの交換駅の両者が混在したからだろうと思われる。運転台が中央にあるほうがタブレット授受に便利だと判断されたのだろう。
タブレットが運転台にあるのが見える |
鉄道は一般的には左側通行で建設されるために、運転台は運転室の進行方向左側に設けられるのが標準的だ。だが、非自動閉塞の場合にはタブレットの授受を運転士と駅員が行いやすくするために、交換駅を右側通行にする会社もある。秩父鉄道もそのひとつの例だったのだろう。その名残りからか、新郷、武州荒木、持田、そして秩父は駅の進行方向がいまでも右側通行のままだ。
車両の運転台を右側に設けた上信電鉄の例もある。上信電鉄では自動信号化にともなって左側通行に変更されたが、山名だけはいまでも右側通行だ。これら、右側通行で残された駅には秩父を除いて構内踏切がある。列車交換時に構内踏切の通行を妨げる時間を少なくするために、右側通行のままということらしい。
ただし、秩父がSLパレオエクスプレスをのぞいて右側通行のままなのは、どうしてだろう。
■武州中川と武州日野は右側通行だった
秩父鉄道のほとんどの区間は、私がはじめて訪問した1984(昭和59)年には自動閉塞化されていた。ところが、影森〜三峰口はタブレット閉塞式のままだった。そして、武州中川と武州日野は当時は右側通行だった。武州中川駅構内には腕木信号機も残されていたようだ。
だがその後1988(昭和63)年3月までに何度も通い、列車の写真を撮っていたのに、このタブレット交換のようすを撮ることはしていない。36枚撮りのコダクローム64を1本を持っていくのがせいいっぱいだった中学生だったから、列車以外にカメラを向けるゆとりがなかったのだろう。
腕木信号機は当時でもめずらしかったのに、その存在にさえ気づかなかったことはいま思うと残念だ。なにしろ、中学生の私は白久から影森まで歩きながら撮影地を探すことまでしていたのに。それなのに腕木信号機のことを廃止後ずいぶん経つまで知らなかったのだ。いったいなにを見て歩いていたのだろう。好きな異性のことでも妄想していたのではないか。
2010年4月の武州日野。左側通行になっている |
武州日野を通過するSLパレオエクスプレス5001列車。 左側通行だ(2016年11月) |
武州中川と武州日野は1991(平成3)年ごろに左側通行に変更されたようだ。そして、影森〜浦山口は1995(平成7)年に自動閉塞化されて、タブレット交換は行われなくなった。通過列車のために用意されていたタブレットキャッチャーと腕木信号機も撤去されていまはない。
2008(平成20)年ごろに20年ぶりに三峰口まで列車に乗ったさいに、武州日野でSLパレオエクスプレス5002列車と交換するようすを見ていて、うまく説明しがたい違和感を覚えた記憶がある。どうも記憶とことなる気がすると思ってむかしの写真を見ていて、進行方向のちがいにようやく気づいた。
■タブレット交換をはじめて目にした思い出が「秩父鉄道趣味の原点」かも
以前にも書いたが、1984(昭和59)年11月23日の祝日に、御花畑から三峰口まで300系電車による急行『秩父路』号にはじめて乗ったさいに印象的だったのは、古めかしいながらもていねいに扱われている300系電車の姿と、桑畑が左右に広がる単線区間をけっこうな速度を出しながら走り、警笛をさかんに鳴らすこと、そして武州中川と武州日野を通過する列車の運転士と駅員がタブレットを交換する光景を目にしたことだ。
いま考えると、タブレット交換の風景をうまれてはじめて自分の目で見たのかもしれない。当時は桑畑も第4種踏切もいまよりも多く残されていて、踏切ごとに警笛を鳴らしながら300系電車は浦山口、武州中川、武州日野と通過していった。通過駅では減速はするものの運転停車はしない。
武州中川を出発する下り三峰口行き列車。 ごらんのように左側通行だ(2013年4月) |
武州中川を出た上り羽生行き列車(2013年4月) |
そして、駅員と運転士がタブレットを交換する際に、運転士が受け取ったタブレットキャリアの底部分にあってタブレットを収納する革ケースが、車体外の保護板にあたった。その「どーん!」という感じの音と衝撃は予想外に大きかった。運転室直後の座席でかぶりつきをしていたヲタな少年(つまり私)はそれに驚いて文字通りに飛び上がった。
1988(昭和63)年3月の武州中川での交換待ち。 下り三峰口行き列車の運転台後ろでカメラを構えていたら 上り急行『秩父路』300系電車が対向列車としてやってきた。 下り列車がホーム右側にいることにも注意 |
この写真にもよく見ると腕木信号機が写っている |
この往路のわずかな急行列車の乗車がとても印象的だっただけではない。三峰口には大きな貨物ホームが残され、そのホーム越しに秋の日差しを浴びて300系電車の第二編成のアルミ車体の中間車サハ352号が輝いているのが見えた。その足元はどうみても空気バネ台車だった。さらに、三峯神社を目指して三峰ロープウェイに乗るべく大輪まで乗った路線バスが、三峰口駅を出て荒川を渡る白川橋を越えたときに、使われていなそうな木造の大きな積み込み設備が見えた。
これらの鉄道シーンに小学校4年生の私はすっかり魅了されてしまった。そして、それまで存在をよく知らないでいた、いろいろと古めかしさを感じさせつつも、近代的な要素もたくさんあるこの鉄道に魅了されてしまい、いろいろともっと知りたいと興奮した。
その日のそれ以降のことは、これらの鉄道シーンと三峰ロープウェイとみごとだった紅葉のようす以外には、ほとんど記憶にない。秩父鉄道に乗るために出かけたのではなく、三峯神社へ紅葉を見るためにハイキングに親に連れられて行ったというのに。
そして、ヲタ少年はその鉄道に関する記憶を40年近く経っても忘れられずにいる。何度も思い出して上書きして都合よく改変している可能性はある。そして、その記憶はそれ以降の人生で出会ったものごと、人々についてよりも、もしかしたら鮮明でさえある。ヲタ少年が覚醒した瞬間だったのかもしれないなあ。
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【撮影データ】
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