『NEKO MOOK 写真で見る西武鉄道100年』(ネコ・パブリッシング 2013年)によると、西武池袋線東長崎〜江古田にはかつて「西武市場(せいぶしじょう)」駅という貨物駅が存在したそうだ。いまの住所表記でいうと、練馬区旭丘1丁目22-13。練馬総合病院の隣の線路沿いの場所だ。
1945年(昭和20年)に長江(ながえ)駅という名前で開業したのだそうだ。「東長崎」と「江古田」のあいだにあるから「長江」だったのだろう。井草と荻窪のあいだに「井荻」、あるいは国分寺と立川のあいだだから「国立」など、西武鉄道(旧国土計画)が開発した土地ではよくある命名法だ。
この長江駅はし尿輸送のために作られたそうで、その後し尿輸送が廃止される1953年(昭和28年)に「西武市場」駅と改称し、一般貨物駅になったそうだ。その後も長くは使われず、1963年(昭和38年)に廃止されたという。
いまは日本通運江古田流通センターが立っている。
こちらは101系4両編成(上り方は新101系)を2本つないだ 8両編成の上り各駅停車 |
■「西武倉庫」のこと
この日本通運江古田流通センターになるまえは、ここは地元では「西武倉庫」と呼ばれていた。正式名称はわからない。どうやら旧西武流通グループの物流基地のひとつだったようだ。いつできて、いつ日本通運の流通センターになったのかも、ネット検索だけでは私にはいまのところ詳細はわからない。図書館に調べに行かないといけないだろうが、その元気が出たらね。
この日本通運江古田流通センターになるまえは、ここは地元では「西武倉庫」と呼ばれていた。正式名称はわからない。どうやら旧西武流通グループの物流基地のひとつだったようだ。いつできて、いつ日本通運の流通センターになったのかも、ネット検索だけでは私にはいまのところ詳細はわからない。図書館に調べに行かないといけないだろうが、その元気が出たらね。
「西武流通グループ」といっても、2023年にもなると通じない方も多いかもしれない。西武グループの創業者堤康次郎さんがなくなってしばらくたってから、鉄道グループは義明さんが、流通グループは清二さんが引き継いだ。この西武百貨店、西友などを経営していた清二さんのほうの小売店を中心とした流通部門の「西武グループ」、のちの「セゾングループ」のことだ。堤義明さんの西武鉄道グループとは「必要に応じて協力しあう」関係だったようだ。たとえば、西武鉄道の駅にある西友は西武鉄道の所有地に建てられていた。
この西武倉庫に話を戻す。通常は部外者は内部に入ることができない。だが、記憶によれば年に数回この場所で、現在でいうところのアウトレットセールが行われていた。新聞に折込広告が入っていたのではなかったか。親に連れられて何度か買い物にでかけたことがある。
現在のように新101系2両編成が下り飯能方にある。 上り方は101系の6両固定編成のようだ |
■カメラを持っていってみた
親の一眼レフカメラを借りて西武鉄道の列車の写真を撮るようになったある日、上記にある「西武倉庫のバーゲンセール」に誘われた。おそらくはなにか衣料品を買ってもらったのだろうが、そのことについての記憶はまったくない。
親の一眼レフカメラを借りて西武鉄道の列車の写真を撮るようになったある日、上記にある「西武倉庫のバーゲンセール」に誘われた。おそらくはなにか衣料品を買ってもらったのだろうが、そのことについての記憶はまったくない。
だが、そのときにどういうわけか「西武倉庫からならば列車の写真を撮ることができるのではないか」と思いついたらしい。おそらく以前にも、ここから列車が行き来するようすを見ていたことがあるのだろう。そして、買い物をする親といっしょに西武倉庫へでかけたようだ。カメラを持って。
そうして、親が買い物をしているあいだに「自分は待っているから」などといって、2階部分から列車の写真を撮っていたようだ。3月の午後遅い時間で、列車の車体に濃い影がかかっている。だが、中学生の自分はそんなことを気にしないで撮っていた。露出計のないカメラだったので、フィルムの箱にあった露出の目安をもとに、F8・1/250秒あたりにしていたはず。「50mm程度の標準レンズで直線区間を走る列車の動きを止めるならば、1/500秒から1/1,000秒にすべきだ」などということも、当時はまだ身につけていなかった。だから、列車の姿はぶれているので、編成番号などはわからない。
アウトレットセールを行っていた倉庫から列車を撮っていても、だれかに注意されたりとがめられた記憶はない。そう長い時間撮っていたわけでもないだろうが。おおらかな時代だったといえるかもしれない。
■2両編成の連結位置
数本の列車を撮っているようで、ネガにはそのころから自分が好きだった101系電車と新101系電車、さらにはまだ新製直後だった3000系電車が写っている。ぶれていて列車の形式表記の数字までは読めない。
こうしていま見ていておやと思ったのは、新101系2両編成の連結位置だ。2012年の池袋線からの新101系の定期運用終了時点では、2両編成は下り方に連結されていた。ところが、ここにある1986年の写真では、下り方にも上り方のどちらにも連結されていることがわかる。
むかしから私には編成番号をこまかく記憶する几帳面さが欠けている。いまでも、新101系の西武所沢車両工場製のものと東急車輛製のものの区別もつかないままだ。そして、2両編成の新101系を意識して撮影していたのも、2008年ごろからだ。だから、池袋線でいつから2両編成の連結位置が下り方と定められたのか、よくわからないでいる。ただ、そのころすでに池袋線では2両編成は下り飯能方に連結されるようになっていた。女性専用車両の指定が始まってからは、この連結位置は池袋線では下り方だ。
私は当時、池袋線と新宿線の中間地点に住んでいた。より多く利用するのは新宿線のほうだった。記憶をひもといてみると、新宿線では当時からいまに至るまで、2両編成の401系や501系、あるいは2000系の2400番代車は西武新宿方にも本川越方のどちらにも連結されることがある。いっぽう、新101系や新2000系の2両編成がいなくなっても、池袋線では30000系の2両編成は飯能方に連結されるのは変わらない。
こういう、よく覚えていないことが写真に写り込んでいることもある。そして、当時は意識しなかったけれど、駐車場に止められている自動車がどれも懐かしい。
こういう、意識していなかったものが写真に写り込むことも、写真のおもしろさのひとつなのではないか。
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【撮影データ】
Konica FP/Hexanon 52mm F1.8/FUJICOLOR HR 100/Nikon SUPER COOLSCAN LS-4000 ED