■大好きだった電車、ほんとうにさようなら
先月半ばに秩父鉄道から「『鉄道車両公園』のリニューアルについて」と発表され、すでにあちこちで記事にされているように、三峰口駅構内の鉄道車両公園に保存されている100形電車がまもなく解体されることになりそうだ。具体的に100形電車を解体撤去するという発表ではなく、プレスリリースによれば「公園リニューアルに向け、老朽化が進み安全の確保が難しくなりました展示車両につきましては、部品等の一部保存や写真等による資料化の後、誠に勝手ではございますが撤去させていただくことと致します」とあるだけではあるものの、2014年の平成26年豪雪のころに100形の室内の天井板が落ち、戸が破れているのは見ていたので、デキ1、ED381とともに解体されるだろうという想像はつく。
もちろん、私だって解体されるのは惜しい。自分に資金と土地とバイタリティがあるならば買って自分で保存したいくらいだ。だから、正直にいうと矛盾したふたつの思いにかられているのはたしかだ。とはいえ、1988(昭和63)年に廃車になり、1989(平成元)年3月に鉄道車両公園が開園してここに運び込まれて以来、ずっと屋根もなく雨ざらしにされてきて、むしろ30年ものあいだよくぞ崩れずにいたとさえ筆者は思う。この気持ちにも嘘偽りはない。いち営利企業に文化財としての保存コストを丸投げして、ずっと維持させて払わせ続けるのは無理があると思うのだ。
■戦後から昭和の終わりを駆け抜けた秩父路の主力電車
さて、この100形については以前から何度か記事にしているので、お仲間のみなさんにはすでにご覧に入れたことのある写真ばかりで申し訳ない。
秩父鉄道100形は1950(昭和25)年から1954(昭和29)年にかけて日本車輌東京支社にて製造された、17メートル級車体を持つ当時の運輸省規格型電車だ。新製されたものと、電化時に導入された小型車や鉄道省から譲り受けた木造車体の電車を鋼体化したものがあり、最大で31両ほど作られた。制御電動車はデハ100、付随車はクハ60(のちに運転室を撤去しサハ60になったものもある)小荷物輸送の荷物室を持つクハニ20、郵便設備を持つクハユ30も存在した。2両編成と3両編成からなり、これらを組み合わせて運用された。
この電車は昭和60年代の少年の私にはとても古い電車に見えたけれど、いま思えば外観やHL制御の制御装置、半鋼製で木造ニス塗りの内装、そして、ごつい台枠にウインドウシル・ヘッダーのある外板などの古めかしく見える要素ではあっても、吊り掛け駆動の通勤形電車としては戦前からの定評のある装備を利用して作られた最後の世代ともいえるだろう。昭和25年から29年といえば、そろそろ軽量車体の電車やカルダン駆動が試み始められるころだった。とはいえ、こうして台枠に立てた柱で車体の強度を担う戦前に主流だった車体の作られかたをしていたからこそ、皮肉にも廃車後30年間も雨ざらしにされていても耐えられたのかもしれない。
製造時は長野電鉄モハ1000形電車にもよく似た正面デザインだったようだ。私がここに掲載できる写真がないので、イラストを描いた。運転台は中央にあり、「中央の窓が少し大きい」とよく書かれているものの、写真を見ると改装前の姿では中央窓が大きいように見えないのは気のせいか。登場時はぶどう色に白帯をまとっていたが、昭和34年の300系電車の登場のころから、小豆色とはだ色のツートンカラーになった。正面窓の改造がなされるまえにツートンカラーだったようで……その時代の姿を自分の目で見ておきたかった。
この電車は秩父鉄道の主力電車としていろいろと手を加えられて秩父路を走り続けた。ドアステップの撤去、パンタグラフや台車の交換、片運転台化や編成替え、前照灯のシールドビーム化、運転室内に方向幕の装備などが行われ、SLパレオエクスプレスが走り始めた1988(昭和63)年まで秩父路に力強いモーター音を響かせていた。
■ワインダーのついた一眼レフで連続撮影して……カ・イ・カ・ン
この電車が最後の活躍をしていたころに、筆者はニコンF-301を買ってもらい、リバーサルフィルムを使って走りを撮るということを始めた。だから、露出はあっていてもいろいろと写真が荒っぽいのはおはずかしい。正面から撮った写真は白久駅に進入するシーンだ。こういうときに連続撮影をしてみて、その楽しさを知ることができた。あたかも機関銃をぶっ放して「カ・イ・カ・ン」だなんて……(冗談ですよ!)。もっとも、筆者が思い浮かべるそれは橋本環奈ちゃんではなくて薬師丸ひろ子なのだけど。あ、橋本環奈ちゃんはもちろんかわいいと思うよ!
長野電鉄の保存車両も少し前に解体されたようだ。かつての屋代線の日中を単行運転していたようすは当時『鉄道ダイヤ情報』誌などにもガイドが掲載されていて、それを撮りに行こうと思っていたのに、結局廃車までにまにあわなかった。大学生になったころまで走っていたというのに。だから、中学生のころにこうして秩父鉄道100形を少しでも撮ることができたのは、いま思えば運もよかった。
そして、鉄道車両に限らず、撮りたい写真があるならその被写体が永遠に存在するなんて思ってはいけない。思い立ったらすぐに撮りに行かないといけないということなのだろう。相手が人間だって同じだ。会いたいひとには理由なんてどうでもいいから、すぐに会いに行くほうがいいものね。さよなら、秩鉄100形。
長瀞オートキャンプ場の電車バンガローと、上熊谷駅近くのバー「バーボンクラブ」にも100形の車体が残されているね。100形はこうして廃車後も姿を長くとどめている幸せな電車なのかも。でも、気になったらこれらも見に行かなくちゃ。「心の片隅にでも小さくメモして」おいてさ。なにしろ、上熊谷のお店にまだ行ったことがないんだ……。
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【撮影データ】
Nikon F-301/Sigma 35-70mm F2.8-4, 75-210mmF3.5-4.5/KR, EPP
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デハ107号車のKS-33台車 |
クハニ29号車(二代目)のFS-41台車 |
長瀞オートキャンプ場の電車バンガローに残された運転台のステッカー |
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【撮影データ】
Nikon F-301/Sigma 35-70mm F2.8-4, 75-210mmF3.5-4.5/KR, EPP