2013年12月6日金曜日

【1980年代末の秩父鉄道】秩父100形電車のこと その2

クハニ29を正面から(1987年8月)

■リバーサルフィルムのなかでいまも秩鉄100形電車は走り続ける
父鉄道100形電車や急行形の300系電車が気になり始めたころは、私にとってはちょうど一眼レフに交換レンズとリバーサルフィルムを用いて本格的に写真を撮り始めた時期でもある。思えば運がよかったのは、コダクローム64(当時あったフィルムの略号でいうと「KR」)で100形電車を少しだけでも写真に残すことができたこと。

そのおかげで、25年ほどたってもコダクロームのなかで、100形電車は色褪せることなく走り続けているかのようだ。

リバーサルフィルムを使って私が秩父鉄道を撮り始めたのは1987(昭和62)年8月なのだそうだ。手元に残っているポジフィルムのケースにそう記されている。

その直前に親から借りていた古いコニカの一眼レフのシャッターを壊してしまい、修理不能になった。その代わりにニコンの一眼レフを買ってもらった。新たに買ってもらったF-301はプログラムオート搭載のカメラで、ワインダー(ニコンではモータードライブと称した)搭載の機種。エントリーユーザーの私でもリバーサルフィルムを使いやすい環境になったから、鉄道誌やハウツー本にあり当時のカメラマンたちが絶賛するKRやPKR(コダクローム64プロフェッショナル。乳剤管理が厳密で色補正データも公表されていた「プロ用」リバーサルフィルム)を試してみたくなった。もちろん、いままでなかなかうまく撮れなかった「走り」を撮ろうと試みた。

最後に残ったデハ+クハニ×2の4連(1988年3月)

■秩鉄電車のパンタグラフの向き
秩父鉄道で撮影されている方ならご存じの通り、午前中の下り列車の先頭が基本的に順光になる。100形は上り方にデハ100形がいたので、順光で正面を狙った写真ではほとんどが下り方のクハニ20形ばかりだ。当時、「前パン」になる電車は100形と800系電車だけ。ただし800系は下り三峰口方にパンタグラフがあった。そういえば、800系のパンタグラフの位置は冷房改造後の1000系*と同じだ。

1987(昭和62)年にはすでに、100形電車は2両編成が2編成程度しか残っていなかったと思う。すでに800系によって3両編成は置き換えられ、さらに1000系電車(国鉄→JR東日本101系電車)の導入が始まっていたから、沿線で張っていても1運用程度しか遭遇しなかった。だからこそ、なるべくいろいろな場所で撮ろうと撮影地の開拓につとめた。

中央に運転台があったことをこの写真で思い出した(1988年3月)

■撮影地を自分の足で探した
中学生の自分がいまよりもずっと元気があったと思わせるのは、撮影地を探して沿線をよく歩くことができたということ。白久から浦山口まであちこちの桑畑を見ながら歩いたり、武州原谷と黒谷(現和銅黒谷)のあいだの切り通しに行くべく、大野原から歩いて雑木林を通ったものだ。

当時はインターネットももちろん存在せず、撮影地のガイド本も数えるほどしかなく、荒川橋梁と上長瀞の桜並木以外は、鉄道誌の記事にあった撮影地で撮るにも、アクセス方法も自分で探すほかなかった。それもいま思えば自分の足で撮影地を探すというのは、それこそ地方私鉄撮影のおもしろみだったかもしれない。焦げたブレーキシューや油の匂いをかぐたびに、いまでもあのころの線路際や線路際に行く途中の道を思い出して懐かしい気持ちになる。そして少年のころと同じことをいまでもしていると思うと少しおかしい。

* 「冷房改造後の1000系」:1000系は秩父鉄道に導入された当時は冷房改造されておらず、デハ1000形は国鉄クモハ100形のままに連結面にパンタグラフを一基搭載するだけだった。ただし、当時の秩父鉄道の仕様に合わせてPS13形が使われていたところがけっこう好きだった。見ることがかなわなかった旧型国電みたいだったからね。余談だが、いま導入が進んでいる2連の7800系(ナナハチ)は100形のように上り熊谷・羽生方にパンタグラフがある。撮るにはいろいろ工夫が必要そうだ。

 【ご注意】本ブログからの写真・文章の無断使用は営利・業務用途ではもちろんのこと、非営利・非業務用途でも厳にお断りいたします。X(旧Twitter)などのSNSに本ブログや記事へのリンクを貼っていただくのは歓迎いたしますが、本ブログ内の画像を当方に無断で投稿に貼る行為は固くお断り申し上げます。URLを併記されても無断でブログ内の画像をpost(ツイート)に貼る行為は「無断での不正使用」とみなします。