2023年2月6日月曜日

【東武越生線撮影記事】8000系電車が行き交う東武越生線高麗川橋梁で再挑戦

いままでここでこう撮らなかったのはなぜだろう

■今度は右岸にも行ってみた
東武越生線をひさしぶりに訪ねてみたものの、何度撮ってもできあがった写真に不満が残ったという話の続きだ。どうも自分ではいまひとつ気に入らない写真になる。

そこで、不満を解消するためのヒントとインスピレーションがほしくて、ふとネット検索をしてみた。するとヒントを与えてくれる写真を「見つけてしまった」。それを見て頭を「ガツーン」とやられた。

高麗川右岸から橋梁を見る。
画面右に明海大学が隠れている。
中央が城西大学でその左隣の木立の向こうが日本医療科学大学。
また、画面左側の築堤のあたりが旧森戸駅跡

AI Nikkor ED180mm F2.8Sに
キヤノンゼラチンフィルターホルダーのフードをたくさん重ねた

それをそのまま真似るわけではもちろんない。それでも示唆してくれるなにかはあった。いままでとは視点を変えてみる必要はあると思わされたわけだ。そこで、数日後にあらためて高麗川橋梁にやってきた。我ながらしつこい。ただし、こんどは右岸側でカメラを構えた。

2017年には右岸で撮っていたはずだ。あらためていまの視点で見ると、越生線橋梁奥の大学の校舎を隠すアングルにするには右岸のほうが工夫しやすい。橋の側面にも上流側に行くこともできるから。左岸側には水のない部分は少なくて、わずかな移動しかできない。

高さに気をつけないと橋梁の上に大学の校舎がですね

上り列車の流し撮りは緊張する

そう思って、180mmでねらってみると……気に入った。いいじゃんか。どうしてこれを考えつかなかったのだろう。視野が狭くなっていたのではないかな……としばし反省した。猪突猛進ばかりではいけないということか。そして、AI Nikkor ED 180mm F2.8Sは強い光を画面に入れなければいまでもいい感じ。

そうしてしばらく撮って満足したので、日没してから、いつもの左岸にも行くことにした。

■右岸に行くならば西大家のほうが近いかも
高麗川は渇水期であれば、越生線の橋梁のあたりはそう水量が多いわけではない。だが、徒歩で渡河をするのはさすがに無理だ。そして、越生線橋梁から直線距離で600メートル下流にある森戸橋まで行かないと橋がない。

国土地理院地図よりキャプチャ
高麗川橋梁周辺の位置関係

上流の橋は城西大学のあたりにある小さな橋まで行く必要があり、より離れている。直線距離ならば730メートル。だが、河川敷とその近くの道を歩くと1,470メートルほど離れている(国土地理院地図より計測)。

西大家〜川角の駅間距離は短いが、橋の場所を考えると左岸で撮るならば川角、右岸で撮るならば西大家のほうが便利なのかもしれない。河川敷の越生線橋梁の上流側を歩いたことは、じつはまだないのだが。

■息を切らして左岸で再挑戦
そういうわけで右岸で撮影してから下流側の森戸橋へ出て、橋を渡って上流に向けて川沿いを歩き、左岸に出るにも1,200メートルほど歩いた。越生線の列車は(時間帯にはよるものの)15分程度の間隔でやってくるが、歩いているあいだに1往復ぶんは撮り逃がす。だから、ねらう列車があるならば光線状態を見ながら行動をよく考えたほうがいい。

左岸のいつもの場所より。日没後に大学のロゴが点灯しちゃうのです

早足で歩いて息を切らせて、左岸の撮影地点に行った。このところ数日間通っている場所だ。前日までの注意事項をよく思い出しながら、前日までのAIAF Nikkor 35mm f/2DをやめてマニュアルフォーカスのAI Nikkor 28mm f/2.8Sで撮った。画角が広くなるぶん、編成全体は入るようにはなる。

ただし列車の扱いが小さくなって、おとなしい印象になるともいえるし、暗くて見えないが電線の写り込みを避けにくくもなる。じっさいに画面左端に写っているはずだ。だから、空模様や光の具合とのかねあいにもよるかな。

28mmを使うと編成全体が収まった

いろいろ注意して構えてみて前回よりは気に入った。きちんと三脚も持って来たということもありそうだ。手持ちでもいいけれど、ギリギリのアングルで撮るときに精度が落ちる。

最後は流し撮り

■西大家で大きく曲線を描くところがおもしろい

国土地理院地図よりキャプチャ
東武越生線が画面中央の西大家駅で大きく向きを変えている

さて、東武越生線の線路は坂戸から南西に走るのに、西大家で北西に向きを変えて大きく曲線を描いてから高麗川を渡って越生をめざす。

越生線の前身である越生鉄道が1932(昭和7)年に開業したときの路線は、坂戸町(現 坂戸)から高麗川だった。この「高麗川駅」は現在の八高線と川越線の駅とはことなる。高麗川橋梁右岸にあり、埼玉県立坂戸西高校に接した築堤のあたりの空き地の部分のようだ。のちに森戸と改称した。撮影していた右岸の坂戸よりのあたりに位置していたようだ。

越生鉄道は高麗川の砂利採取を目的とした貨物専業の鉄道だったそうだ。1933(昭和8)年から翌年にかけて国鉄八高線(南線)が越生まで伸びると、越生鉄道は森戸〜越生を開通させて旅客輸送も始めた。

越生は現在でも梅林で有名だが、ウメ、ユズの収穫量と出荷量が多い。木材加工もさかんで埼玉県南西部でも古くから栄えていた町だった。それゆえに、東京や川越に出る交通機関が求められていて、坂戸から越生を結ぶ鉄道建設の免許を取得して1928(昭和3)年に越生鉄道が設立されている。

だが、この越生鉄道はどうして坂戸から越生へ向かうのに現在の西大家付近で大きく方向転換をする、やや遠回りをするルートをとったのだろう。いろいろと考えてみると、おそらく地形の問題のようだ。坂戸の近くで高麗川を渡ってしまうと丘陵地帯にぶつかってしまう。

なお、国鉄川越線が開業するのは、越生線全通よりも遅く1940(昭和15)年だ。川越線は越生線と並走するような路線だが、東北本線と八高線を短絡して中央本線をバイパスすること、東京都心を迂回して東海道線と東北本線を結ぶルートを作ること、というふたつの軍事的な目的から重要路線として開通した。

また、1963(昭和38)年に西大家手前に設けられた信号所から、現在の太平洋セメント埼玉工場(当時の日本セメント埼玉工場)を結んで開通した日本セメント線は、日高市にある工場に向けて比較的まっすぐ線路が敷かれていた。越生線の列車からも、変電所のあるあたりで分岐していたのだろうと想像できる跡地を見ることができる。

私がカメラを持って出歩く年齢になるまえの1984(昭和59)年に貨物輸送が廃止されて、日本セメント線も廃止されたために、そこを行く貨物列車を私は見たことがない。だが、坂戸機関区にいる電気機関車は東上線の列車から見た記憶がある。いまでも東上線下り列車で坂戸に着くと、電気機関車と車掌車が見えるのではないか……という気持ちになる。

こうした歴史的経緯は直接的に写真になるわけではない。だが、越生線の撮り方をほかにも考えてみようかな、と思っていろいろと調べている。説明的なだけで絵として成立しない写真にはしたくないが。

そして、自分の「好みの撮り方」はすでにいくつか確固としてある。だが「自分らしさ」を決めてしまいそれだけに従うことはまだ避けたい。いろいろな方法論があるはずだと思うし、まだ身につけていきたい技術もあるから。



■坂戸駅のストリートピアノの存在を確かめた
帰り道に坂戸で改札から自由通路に出たら、たしかにストリートピアノがあった。自分の足を使って情報は裏を取らないといけないからね。今日は弾いているひとが誰もいなかったのは残念だ。自分も楽器ができたらカッコいいな。

【撮影データ】
Nikon Df/AI Nikkor 28mm f/2.8S, AI Nikkor 85mm F2S, AI Nikkor ED 180mm F2.8S/RAW/Adobe Photoshop CC