■二眼レフで撮っていた青梅線を行くEF64形1000番代
1990年代に大学生になったころ、なんとなく鉄道を撮るのをやめてしまったとは何回もここで書いている。でも、そのころにもレジャーで出かけた先でときには列車を撮ってはいたから、鉄道への興味が完全に失せたわけではなかった。外出するにも未踏の鉄道路線に乗るのを楽しく思っていたし。
旧ブログでもお目にかけたことがある画像をまた見つけた。レタッチをし直してご覧に入れたい。1991(平成3)年8月にJR青梅線沿線に出かけた際に見かけた、EF64形1000番代が先頭に立つ石灰石輸送列車の姿だ。たしか奥多摩町の民宿に一泊したはずで、その往路で奥多摩駅で撮った。
そのころはクラシックカメラブームが始まっていたころだった。それに影響を受けて、ニコンの一眼レフカメラを使っていたのに、ニコンとはことなるカメラを試したくなったらしい。そして祖父が持っていて使わなくなっていた古い二眼レフであるリコーフレックスVIIを譲り受けて、ためしに使っていたはずだ。
■リコーフレックスとはこんなカメラ
リコーフレックスとは、板金製ボディにファインダーレンズと撮影レンズを歯車で嚙みあわせる機構を持ったブローニーフィルムを使用する二眼レフカメラで、画面サイズは6cm×6cm(正確には5.5cm×5.5cmだそうだ)。1950(昭和25)年発売のIII形が人気を呼び、日本では「二眼レフブーム」を巻き起こした。リコーイメージング公式サイトによれば、シリーズ全体で100万台以上の生産販売を記録したという。
1950(昭和25)年といえばまだ戦後復興の時代だろうか。35mmフィルムを使用するライカやコンタックスの距離計連動式カメラは超高級品だったはずだ。ニコンとキヤノンの距離計連動式カメラも、当時は高級品として貴重な外貨を稼ぐためにおもにアメリカに輸出されていた。報道機関ではシートフィルムを用いるスピードグラフィックが用いられていたと思う。引き伸ばしをせずに密着プリントで印刷原板にできることが好まれたそうだ。
リコーフレックスは大量生産に向くシンプルな構造だった。巻き上げとシャッターチャージの連動もなく、裏蓋の確認窓からフィルムの裏紙の数字を見て自分で巻き上げを行わないと、同じコマに露光してしまう。だが、そういうカメラは当時は珍しくなく、それもまた価格を抑えることに寄与したはず。それゆえに一般庶民にはおそらくまだ手がとどく価格だったこと、さらに5.5cm×5.5cmというフィルムサイズも、密着焼きでも楽しめるという理由で人気を博したのだろう。いまとはずいぶん時代がことなるわけだ。いまとなると想像しがたいよね。
リコーフレックスVIIはそのうち、リコーイメージング公式サイトによれば1954(昭和29)年に発売されたモデルだという。祖父から譲り受けたのはスローシャッターのある精工舎製セイコーシャラピッドシャッターを装備したモデルだ。
譲り受けたときには革ケースなどもあったはずだが、ずいぶん使われないでしまわれていたためにケースは傷んでいたので、いまは手元にはない。カメラは大切に使われていたし、その後サードパーティ製のレンズフードやフィルター、別売のセルフタイマーなども出てきた。祖父にそのあたりの話を聞かなかったものの、それなりに凝り性だったのだと思う。当時の『アルス』などのカメラ指南本もそのあと祖父の蔵書から出てきた。
レンズは画面中央部は絞るとそれなりというところか。1990年代に譲られたときにすでに拭き傷や曇りがあった。モノクロフィルムで撮るとたいへん軟調で、単なるすりガラスでできているファインダースクリーンに写る像も、いまより視力があってもピント合わせはしやすくはなかった。
そこであるとき、レンズが軟調であるならば高彩度で高コントラストのフィルムを使うとどうなるかという興味が湧いた。うまく相殺できないかということ。そこで、フジクロームベルビアやコダクローム64で何本か写している。このポジもそんなつもりでレジャーに持ち出したさいに撮ったものだ。
■90年代のJR青梅線
さて、1990年代の青梅線がどういう状況だったかというと、1976(昭和51)年より使用されていた103系電車に冷房車が転属して加わり、さらにもともと用いられていた車両にも大規模修繕と冷房化改造がなされたころだ。中央快速線との直通列車は101系電車が置き換えられてすでに201系だった。いっぽう、奥多摩駅から石灰石輸送列車がまだ走っていた。貨物列車を牽引していたのは青梅線の主のように長らく親しまれていたED16ではない。ED16は1983(昭和57)年にEF15およびEF64基本番代に置き換えられていた。だが、EF15は2年ほどで引退しEF64基本番台車も八王子機関区から転出し、青梅線にはEF64-1000番代車が走るようになった。
103系ATC対応高運転台車もATC装置を下ろして使用されていた。 これはべつの機会に一眼レフで撮影したもの。 Nikon F-301/AI Nikkor ED 180mm F2.8S/PKR |
青梅線は自宅からもそう遠くなく、レジャーでも乗っていたので親近感があり、民営化後の103系電車やEF64-1000番代を撮影しに何度か足を運んだことがあった。103系は大規模修繕で車内のアコモデーションも改装された車両も増えつつあった。冷房化改造され、座席の色はブルーからブラウンに、淡い緑色の寒色系だった化粧板もクリーム色にされ、灰色の床も貼り替えられるなどして、見ちがえるように室内が明るくなった103系のことは乗るたびに好ましく思っていた。けれど、数回の撮影でそれなりに満足してしまったようだ。
■そのとき持ち合わせている機材でなんとかする
さて、リコーフレックスVIIを持って奥多摩に泊まった翌日は御嶽山に登り、鳩ノ巣渓谷で水遊びをしてから帰宅するべく列車に揺られていたはずだ。もしかしたら、鳩ノ巣駅から上り列車に乗ったのかもしれない。すると、下り貨物列車との交換待ちをするという車掌のアナウンスを耳にした。列車を撮るために出かけたわけではないのに、カメラ内にフィルムがまだあったことだし、と考えて跨線橋に登って下り貨物列車を待った。
ISO 50のフジクロームベルビアでは1/50秒程度しか得られない暗さだったと思う。だから、低速で走る貨物列車はぶれている。それでも、持っているカメラでなんとか絵にできる構図を考えてとにかく撮った。当時の自分のそんな姿勢はほめてやりたい。
前年の夏にニコンの一眼レフにモノクロフィルムのTri-Xをつめて青梅線を撮っている。そしてこの年の春にはリバーサルフィルムでも。でも、これらが青梅線で貨物列車と103系を写した私にとっての最後の機会だった。なんとなく満足してしまったようだ。貨物列車はこの後、1998(平成10)年にトラック輸送に置き換えられたそうだ。
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【撮影データ】
RICOHFLEX VII/Ricoh Anastigmat 80mm F3.5/RVP(1991年8月撮影)