2019年4月12日金曜日

【西武多摩川線1980年代】西武多摩川線と571系電車

4連組成時には武蔵境方先頭に来るらしいクモハ575(多磨墓地前)

■551系電車の一員として
日のエントリーの続編だ。同じネガにあった西武多摩湖線を走る571系電車をお目にかけよう。多磨墓地前駅(いまの多磨駅)のホームに停まっているところ以外の写真は再掲載なのは申し訳ない。

この西武571系は、551系電車の一員ながらも、501系電車(二代目)を6両編成化するために1962(昭和37)年に作られた。501系とは、西武所沢車輌工場(当時は復興社)で戦後初めてオリジナル設計・製造された湘南型デザインの電車のうち、車体長17メートルの電動車でのちに改称されて411形(初代)→351系電車となるグループをのぞいた、1957(昭和32)年製の車体長20メートルの電車だ。定格出力130kwの強力な主電動機を用いていて、当時の西武鉄道ではもっとも出力に余裕ある電車とされていた。

そこで、4両でMc-T-T-Mc(クモハ-サハ-サハ-クモハ)という編成を組んでいた501系をコストをかけずに6両編成化することが決められ、551系の一員として付随車(サハ1551形)として製造されたのが、のちに571系となるみなさんが見ている電車の原型だ。

1930年代の昭和不況のころには電力代金が払えずに送電制限を受けるほど、経営がうまく行っていなかった武蔵野鉄道(いまの西武池袋線)は、戦後の混乱期を終えて高度経済成長時代になると沿線の宅地開発が急激に進んだ。すると、こんどは混雑をとにかく緩和するために車両数を増やすことが至上命題になった。1950年代から1960年代(あるいは昭和20年代から30年代)の西武鉄道が、戦前の国電と同じような走行性能の電車を作り続けたのは、混雑緩和のために車両を少しでも多く増備する必要があり、そのために安価に入手できる走行機器に目をつけたからだ。

だから、昭和20年代から30年代にかけて製造された西武電車は車体のデザインはことなっていても、混用して使えるように制御装置とブレーキ、走行性能が戦前の国鉄制式機器を導入することで統一されていた。私鉄ではじめての10両編成の列車を走らせたのも西武池袋線のはず。

■571系として独立
とはいえ、いくら主電動機の出力にゆとりがある501系でも、付随車を2両追加して2M4T(Mc-T-T-T-T-Mc/クモハ-サハ-サハ-サハ-サハ-クモハ=6両編成で電動車が両端の2両のみ)の編成を組むのは無理があった。大出力の効力を発揮してほしいラッシュアワーにこそ加速が思うようにできず、かえってダイヤ編成上の障害になるようになったという。そこで、1967(昭和42)年までにこの編成は解除され、501系に新規に組み込まれた付随車サハ1551形は半数が電動化されて外観もほぼ共通の551系に組み込まれて、551系を6両編成化するために用いられた。そのさいに、モハ571形、サハ1571形と改称されている。

こうして生まれたモハ571形とサハ1571形は551系とともに、空気ばねを備えたFS40台車への履き替えなどの近代化改修を受けながら用いられていた。ところが、1978(昭和53)年から、701系電車の増結用だった411系電車に701系に合わせて冷房化とブレーキ装置の向上改造(HSCブレーキ化)が行われ始めると、従来の赤い電車(自動空気ブレーキの旧性能車)と用いる増結用の2両編成の電車が不足するようになってしまった。そこで、551系用の中間車だった本系列に運転台を追加し、先頭車改造を施したのがこの571系だ。そのさいに、571系クモハ571形とクハ1571形として新規の形式に独立した。

こういう経緯で571系電車は従来車への増結用の電車として登場したが、自動空気ブレーキを備えたこれら赤い電車が本線系統から置き換えられ始めると、あわせて支線区に移動していき、後年の571系は西武多摩川線で551系とともに活躍していた。筆者は本線系統で571系を見た記憶がなく、むしろ「西武多摩川線の電車」という印象がある。


上記クモハ575と編成を組むクハ1576。電気連結器がある

4連で運用される姿。先頭はクモハ571(新小金井〜多磨墓地前)

クモハ571を野川の河川敷から(新小金井〜多磨墓地前)

■ほんのちょっとだけ新しくて見えて不思議な存在
何度も書いているように、オイルショックのころに生まれた筆者にはこれら赤い電車はいずれもまとめて「古い電車」に思えていた。だが、この571系だけはなんとなく不思議な印象を与える電車に思えた。というのは、1978(昭和53)年ごろに増設された運転台と周辺のデザインは、当時冷房改造が進められつつあった411系(改造後の401系)と同じデザインにされて、行き先方向幕の表示窓が設けられたからだ。

昭和50年代以降のほかの「赤い電車」は新製時から行き先方向幕窓があった701系/801系のグループをのぞいて、下に掲載した351系のように、助手席側の正面窓のなかに方向幕があった。急行や準急などの優等列車はさらにその行き先表示の下に札をぶら下げていた。その札も、列車種別が増えた1980(昭和55)年のダイヤ改正までは準急も急行も赤い色で、二回りくらい小さい札だった。普通、準急、急行以外の種別が増えて、さらに準急が緑色、快速が水色、快速急行が赤地に青というように、優等列車種別表示のこの札が色わけされたのは、子ども心にもよく覚えている。

そんなわけで、571系は「正面デザインだけほんのちょっぴり新しめ」というように私には思えて、不思議な存在だったというわけ。すごくその……細かいね。筆者が当時すでにガチオタだったということか。

行き先表示と種別表示はこういうのが標準的だった。野球開催日の準急列車

北多磨(現 白糸台)の車両基地にいるクモハ571。すでに701系も見える

クモハ573

連続カット。へたすぎていろいろと泣ける

クハ1580。クモハ573-クハ1574-クモハ579-クハ1580という編成らしい

■グリーンマックスのNゲージキットを作ろうとしていたのに
冒頭にあるこの571系の写真を撮ったころに、グリーンマックスからNゲージのプラキットの新製品として発売されたものを筆者は手に入れている。おそらくは、多摩川線にはその資料として写真を撮りに出かけたはずだ。そうして、じつは停車中のこの571系の写真はそのころの自分には「きちんとピントが合い、露出もまあまあ合って、同時プリントでもそこそこちゃんと見える写真になった」という理由で、ほんのちょっとだけ気に入っている写真だった。

当時の「同時プリント」は、きちんと適正露出にカラーネガを仕上げないと、フィルム自体のラチチュードは広くても、一回ではなかなか思い通りのプリントにはならなかった。

そういうわけで、グリーンマックスのキットでは571系を作ろうと思っていたはずだ。掲載していないけれど、私にしてはめずらしく連結面のはしごのようすなども写したはず。

床下機器もグリーンマックスのクモハ11400のものを当時の大山店で分売されているものを買い、あれこれと別売パーツも集めた。より古い20メートル級旧型電車用の床下機器パーツよりも造作がリアルだったからだ。そうして構想だけはあたまのなかでだいぶ盛り上がったくせに、結局はランナーからパーツを切り出しもせず、組み立てなかった。

このキットは戸袋窓が大きすぎて実車に似ていないという欠点があった。だが、組み立てなかったのはそれが理由ではない。そのまま組むと側板と妻面などの合いが悪くてたいへん組みづらいキットだとおとなになってから知った。とはいえ、それが理由で完成させていないのでもないはずだ。それまでに稚拙な腕でも旧型国電の切り継ぎ工作や配管などもしていたのだ。

だから、作らなかった理由はいまとなってはよくわからない。構想だけ大きく膨らませていくうちに具体化したい気持ちと実行する情熱を失って、失速してしまったということか。どうやら、自宅で小さいプラモデルを組み立てることにだんだん飽きてしまったからということらしい……天気のいい日に家にいるのが惜しいと。

なにかを作りたくて構想しているうちに、その構想に念を入れすぎるとそれだけで創作意欲が満たされてしまうのか、具体化しなくなるということが私にはときどきある。写真や文章を書くことでも。「とにかく手を動かして始める」ことの大切さと「自分の技術と妥協点をすり合わせて終わらせること」の重要性を知ったのはおとなになってからかもしれない。

それから30年たったいま、体調のせいで出かけられないことが増えると、こんどはひさしぶりにそういうプラキットを組み立ててみたい気持ちにかられているのは皮肉だ。もっとも、いまは視力が落ちていて、裸眼ではNゲージでは小さすぎるし、有機溶剤と接着剤に触れたくない、などと煮え切らない。少なくとも、模型を作るのはdermatitisというか、Red Skin Syndromeが治ってからね。

16番で作るほどの本気もまだないけれど、そのうちそんな模型製作記事をお目にかけるかもしれない。走らせたいとか、集めたいのではなく、「手を動かしてなにやら作りたい」という気持ちだけはあるのだ。

調子がよくなったら腕慣らしに飛行機のプラモデルでも作ってみるか。大昔のグリーンマックスのカタログにあった「航空機プラモデルのすすめ」のページで航空機に(とてもライトに……飛行機といえばライト兄弟だしな)興味を持ったのだし、それもいいかも。え、ガンダムのプラモデル……? 一年戦争時のモビルスーツと、『太陽の牙ダグラム』のソルティック、『装甲騎兵ボトムズ』のスコープドッグは当時さんざん作ったからもういいなあ。「ガワラ立ち」とか、なつかしいね。

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【撮影データ】 Konica FP/Hexanon 52mm F1.8(1987年4月?、多磨墓地前) Nikon F-301/Sigma 35-70mm F2.8-4(1988年1月、新小金井〜多磨墓地前)
Sigma 75-210mm F3.5-4.5(1987年10月、新小金井〜多磨墓地前)
Ai Nikkor 180mm F2.8S ED(1990年8月、多摩湖線青梅街道)