2013年12月19日木曜日

【ロシアこぼれ話】「地下鉄Е形電車」のこと

コムソモーリスカヤ駅の環状線乗り換え通路より

■「地下鉄E形電車」とはこんな電車
先日、いつもお世話になってるおっとっとさんが、「社会主義日本エレクトリーチカ」として、フリーの「妄想電車」Nゲージを完成させたという記事を拝見して、ずっと訪問するチャンスがないまま時間が経っているモスクワ地下鉄のことを思い出した。

おっとっとさんの作った電車は「もし第二次世界大戦後に日本の東半分がソビエト占領下として社会主義化したら、こんな電車が走っていたかもしれない」という「共産趣味」に基づいた電車だが、中国国鉄の客車や旧ソビエト諸国の地下鉄電車である「地下鉄E形電車Вагон Метро Типа Е)」などを彷彿させる、りっぱなできばえだったからだ。

休止中のレーニン丘駅(現 雀が丘駅)。
画面左はレーニンスタジアム
(現 ルージニキのスタジアム)左奥の塔は
ロシア最古のラジオ塔であるシューホフのラジオ塔。
右奥の四角いビルはロシア科学アカデミー

環状線「オクチャーブリスカヤ(10月)駅」エントランス

ここで、そのE形電車のことを簡単にご紹介したい。1959年に試作され、1963年から1969年にかけてムィティシ車両製造工場(モスクワ州ムィティシにある車両製造工場。現在は「メトロヴァゴンマッシュ」と改名)で作られた電車で、車体長19メートル、両開き4ドア、第三軌条集電式。軌間はソビエト流の広軌1,542ミリ。制御方式は抵抗制御で発電ブレーキを採用している。デザイン的にも、車体外部のコルゲートを除いては、日本の私たちにも馴染みのあるような地味な通勤型電車だ。

■むかしの東京の地下鉄に似ていた
実際、大学のクラスメイトで訪ロ経験のある、けれどとくに鉄道にはくわしいわけではない女子に、自分がモスクワに行くまえに「モスクワ地下鉄ってどんななの」とたずねたところ、その答えは「東京の電車とあまり変わらないよ」という返事だった。

実際に自分がモスクワで目にして、たしかに01系や03系に置き換わるまえの営団地下鉄銀座線や丸ノ内線と印象はあまり変わらなかった。じつにうまい説明だと彼女のことも感心した。

水色の塗装や内装に木が使われているところ、黄色くペンキで塗りつぶされていることがある内装、車両間の移動ができないところはことなるものの、駅の直前のデッドセクションで室内灯がわずかなあいだに消えるところも、子どものころの銀座線を思い出して懐かしくなった。

■コメコン諸国の規格型地下鉄電車
でも、その地味な電車はある種の完成形だったのかモスクワ、サンクトペテルブルク、バクー、キエフの地下鉄でも使われていた。その後のE形各種バリエーションを経て、現在の81-717/714形は旧ソビエト加盟諸国各地で用いられているだけではなく、旧東欧諸国(*1)に輸出もされ、プラハ、ワルシャワ、ブダペスト、ソフィアという首都の地下鉄でも使われている。一種の規格型電車(*2)なわけだ。

そんなわけで正直にいえば、旧ソビエト加盟諸国や旧東欧のほとんどの地下鉄に乗っても、言葉さえ聞かなければ区別がつかないくらいよく似ている。だから当時は珍しくも何ともなくて、ろくに写真も撮っていない。少なくともロシアとは簡単に行き来できるさ、そう思っていたのだろうか。それこそ、なんという『運命の皮肉』(*3)か。


*1「旧東欧諸国」:かつての社会主義国である旧東欧諸国のことは、いまは「中欧」「中央ヨーロッパ」と呼ぶべきだ。日本では無頓着にいまでも「東欧」と呼ぶ方が多いが、この言い方は冷戦時代に鉄のカーテンの東西陣営どちらかにあるかという、イデオロギー的な区分だからだ。したがって「東欧」という言い方はその時代を「ソビエトに押しつけられた『社会主義と称するロシア風全体主義』によって発展の邪魔をされた」と苦々しく思い、ヨーロッパに復帰したと思っているあちらの人たちには嫌がられるのでご注意を。

ただし、「中欧」でも「ミッテル・オイローパ(ミドル・ヨーロッパ)」という言い方は「旧オーストリア・ハンガリー帝国領のドイツ文化圏」を指し、そこでドイツが主導権を握ろうという野望が見え隠れする微妙な言い回しのようなので、単なる「ツェントラル・オイローパ(セントラル・ヨーロッパ)」というべきだろう。もしあなたがハプスブルク王朝の復活をめざしているのでなければね。

*2「規格型電車」:鉄道車両や自動車の製造について旧COMECON(経済相互援助会議・ロシア語ではСЭВ)諸国内で分業体制が敷かれていたのはご存じの通り。電気機関車は旧チェコスロヴァキア(シュコダ)、客車は旧東独、近郊形電車はソビエト(ラトビア)、路面電車はチェコスロヴァキア(タトラ)、路線バスや自動車はそれぞれで国産車もあったようだけど、ハンガリー製バス「イカルス」(連節バスが有名)などが有力で、おかげでどこの町に行っても同じものが走っていた。

それだけではなく、そもそも新しい町は高層の規格型住宅が建ち、目抜き通りは「レーニン通り」「マルクス通り」。住宅地の新しい通りは「平和通り」あるいは「建設者第一通り」ばかりで、家の鍵も数種類しか用意されていない。人々の暮らしもいまや規格型ばかりなのだ! だから、モスクワにもレニングラード(当時)にも、同じ名前の通りがあって同じ作りの家があり家具も同じで、別の家の鍵でもドアが開いてしまう。と皮肉って庶民を笑わせたのが、毎年大晦日にテレビで放映されるモスフィルムのコメディ映画『運命の皮肉、あるいはいい湯をИрония судьбы, или С лёгким паром!』だ。

*3『運命の皮肉』:キャプションの上の説明で書いたモスフィルムの古典名作映画で、大晦日にこれを見ないことには一年が終わらない。最近作られた続編もあるが、ロシア文化研究を志す人や40歳以上のロシア人とつきあいのあるひとは、まずはこの映画の最初のバージョンを見るべし。続編は最初のバージョンを知らないと楽しめず、ハッピーエンドで終わる最初のバージョンを見た親しんでいた観客の夢を壊すところがあるから。YouTubeでモスフィルムチャンネルが全編を公開しているので、ぜひどうぞ。日本語字幕はないし、長いんだけどね!

【撮影データ】
Nikon F, Nikon New FM2, KIEV-19/MC MIR-24N 35mm F2, Ai Nikkor 35mm F2, MC KALEINAR-5N 100mmF2.8/Kodak Academy 200, FUJIFILM NEOPAN PRESTO400

写真についての説明
■コムソモーリスカヤ駅の環状線乗り換え通路:写真は市の北東から南西に走るサコーリニチェスカヤ線のコムソモーリスカヤ駅。いちばん古い開業区間(1935年)なので、いかにもスターリンゴシックの典型のような大理石を使った装飾が施されている。ただし、撮影したのは1995年冬とモノ不足は解消されつつもハイパーインフレがひとびちを苦しめていた時代だ。手前で新聞を持っている男は、安く入手した夕刊紙を転売して利ザヤを稼ごうとしている。このころは地下鉄駅でそういう人は珍しくなかった。

■休止中のレーニン丘駅(現 雀が丘駅)。画面左はレーニンスタジアム(現 ルージニキのスタジアム)左奥の塔はロシア最古のラジオ塔であるシューホフのラジオ塔。右奥の四角いビルはロシア科学アカデミー:レーニン丘(現 雀が丘)よりモスクワ市中心方向より南を眺めている。画面左はレーニンスタジアム(現 ルージニキのスタジアム)、左奥の塔はロシア最古のラジオ塔(1922年)であるシューホフによるシャーボロフスカヤのラジオ塔。右奥の四角いビルはロシア科学アカデミー。中央の橋は「ルージニキ地下鉄橋」といい、2階部分は道路(トロリーバスも走る)、1階部分は地下鉄サコーリニチェスカヤ線「レーニン丘」駅だった。設計ミスと施工ミスで駅は長年にわたって閉鎖されていた。

■環状線「オクチャーブリスカヤ(10月)駅」エントランス:1950年開業の環状線側の駅。目の前にいまでもレーニン像がある。レーニン像はすべてが引き倒されたわけではない。「10月(アクチャーブリ)広場」から命名された。レーニン像と地下鉄駅の駅名はそのままなのに、広場はいまは「カルーガ(カルーシュスカヤ)広場」と改名されている。ギリシャ彫刻ふうのソビエト軍兵士のレリーフがいまとなってはレトロな、スターリンゴシックの特徴だ。