2021年6月27日日曜日

【八高線1990年代】日中閑散時間帯のキハ2連とコダクロームへの愛憎


■梅雨で自転車に乗れない
梅雨入りしてから自転車の乗ることもしづらい日々が続いている。雨が降ることがあきらかにわかるなら、どうしても自転車に乗るのは避けてしまう。そこで、家の片づけをしていたところ、どこに収納したかを忘れていたリバーサルフィルムを見つけた。先日も1990年代の写真をお見せしたのはそういうわけだ。今回は1992(平成4)年9月の入間川橋梁の写真が出てきたので、お目にかけたい。

この日は大学の夏休みの終わりごろのはずで、友人と連れ立って午後遅くに西武池袋線元加治駅を降りて八高線の入間川橋梁まで歩いた。そのさいに、八高線に転属してきた相模線色のキハ3026にたまたま遭遇して写した。そのときの写真はすでに2015年7月15日づけのブログ記事でお目にかけた。ところがその前後の写真のことは撮影した本人がすっかり忘れていた。それをひさしぶりに見ておどろいたのは、日中閑散時間帯に2両編成が走っていたということ。そこで、再掲載のカットを含めてあらためてスキャンした。

■コダクロームは使い手の技量を問うむずかしいフィルムだった
このときはコダクローム64プロフェッショナル(PKR)を使った。コダクロームは2009(平成21)年に製造中止になってすでに10年以上経つから、コダクロームを使ったことがあるというひとはアラサー以上だろう。E-6プロセスの内式リバーサルフィルムが高性能化するまでは退色のしにくさ、粒状性のよさが好まれたという。色に深みがありやや露出アンダーで撮影すると暗部が強くしまるポジフィルムだった。露出オーバーだとパステル調に仕上げることもできた。

ただし、ラチチュードが狭く、使い手の技量を問われるフィルムだった。緑色に発色しやすいという乳剤のばらつきもあり、業務ユーザー客が数多く利用する堀内カラーなどのプロラボの店頭や、ヨドバシカメラ新宿西口本店地下のフィルム売り場には乳剤の製造ロットごとのCCフィルターの補正量を記した紙が貼られていた。

勤めていた会社が口座を持っていた堀内カラーの京橋営業所はフィルム現像の窓口はなくなって、いまは都内では窓口は神田にある。ヨドバシカメラ新宿西口本店ともずいぶんごぶさたしている。いまやフィルムは「修理・フィルム館」での取り扱いなのだそうだ。

コダクロームは前述の通りに乳剤面が厚く色の濃度が非常に濃いためなのか、業務用ドラムスキャナーならばともかく、民生用のスキャナーではとてもスキャンしづらい。民生用でもダイナミックレンジが広いハイエンド機種で16ビットモードとマルチサンプルスキャニング機能を使わないと、うまくデジタルデータにしづらいと思う。

デジタルカメラ以前に業務で撮影する一部のカメラマンに好まれたフィルムではあったものの、2000年代に入ってからは業務では使いにくくなってしまったと個人的には思っていた。コダクロームで撮影して納品していた時代の写真家は職人的な腕前のはずだ。

コダクロームの全盛期は私はアマチュアでコダクロームを使いこなす技量はなかった。だから、独特の好ましい発色のフィルムだとは思いつつ、複雑な気持ちにさせられるのかもしれない。この1992年のカットは90年代に八高線を写した最後のカットでもあるとともに、コダクロームを1990年代に使った最後のカットでもある。

そうしてデジタルカメラ化が進み、プロラボが閉鎖していったうえに印刷現場でCMYK分解をする製版の職人レベルのみなさんがいなくなってしまうと、コダクロームを業務で使う環境は失われていった。銀塩プリントもデジタルデータ化して銀塩印画紙にプリントするラムダプリントや、インターネガを作るのではない限りしづらかったのではないか。

自分が編集者になってから2010年ごろに印刷原稿にコダクロームを預かっても、色校正を何度もやり直す必要があった。製造中止前にコダクロームがなくなることを惜しむ声があちこちから聞こえても、私にはその心情は理解できても、業務の人間としては印刷原稿でコダクロームで納品されるのはいまはきついなと、編集者としての自分は思っていた。むかしの印刷現場のみなさんも露出アンダーのコダクロームの4色分解にはそうとう苦労していたとは思う。

2021年にNikon SUPER COOLSCAN LS-4000EDでスキャンするのはさらにむずかしい。純正ドライバが提供されなくなってひさしく、VueScanにも詳細なプロファイルが載らなくなったためか、スキャンしようかと思うたびに私には覚悟を要する。うまく色が出せないのだ。SilverFastでも難しそうだ。しかも、赤外線を利用した自動ごみ取り機能もコダクロームには使えない。

Nikon Scan 4のほうがずっと色再現が好ましかった。それを使うためにインターネットから切り離したMacにNikon Scan 4が動く最後のOSであるOS 10.6.8(Snow Leopard)を入れていたものの、スキャナーの動作にエラーが多くなってきたので、Nikon Scan 4を使うことはあきらめた。ニコンではハードの修理もすでに受けつけないはずだ。

そろそろ私もリバーサルフィルムのデジタル化はカメラでフィルムを接写する方式にしたほうがよさそうだ。マクロレンズも持っているのだし。ただ、複数枚をデジタル化するのは手間がかかると考えてずっとしてこなかったのだが。カメラのピクセル数が増えて、ピンぼけやぶれ、傷やゴミもめだつのでそのレタッチも手間がかかる。Nikon SUPER COOLSCAN LS-4000EDを維持してきたのはオートフォーカス(AF)もあり、ストリップフィルムを自動で送ることもでき、C-41プロセスカラーネガとE-6プロセスのリバーサルフィルムならば赤外線ゴリ取り機能(Digital ICE 3)が使えるからだ。

いずれにせよ、古いフィルムのデジタル化はいずれにせよそう簡単ではない。手間のわりに高品質になるわけでもない。以前よく行っていた古いフィルム写真のデジタル化を、最近はほとんどしていなかったのはそういう理由だ。

H&MのKodakロゴパーカーと
Amazonで見つけたKodachromeロゴTシャツ。
数年前に買ったのに惜しくて着られないところがヲタだ

コダクローム64プロフェッショナルはたしか販売終了前に保存用に買って、家のどこかにあるはず。ロゴの入ったTシャツも着ないで大切に持っている。好きなのだ。けれど自分には使いこなせなかったから、コダクロームの話になるとつい長くなる。お好きな方には気を悪くされたら申し訳ない。

■夕方曇った
さて、コダクロームと2021年のフィルムスキャナーの話ではなく八高線の話に戻る。このころはまだ貨物列車も走っていたというのは、2015年の記事にも書いた。当時は車掌車が廃止されたことを不満に思っていた。

それがいまこうして見るとDD51が重連で走ることもあったのだから、車掌車がないことに不満を抱くのはずいぶんぜいたくな感じだ。いまでは貨物列車が八高線を走りさえしないのだもの。



9月なのに暑くて河原に降りている。水量が浅くて簡単に川を渡ることができた。だから、河原でしばらく列車を待った。そのうち雲が出てきたので逆光位置からの撮影をあきらめて、元加治駅に戻る道中でいちど順光側に行ったようだ。そこで意図せずに相模線色のキハ30を先頭にした上り八王子行き列車に遭遇した。

■2両編成で足りたのかな
非電化時代の相模線はずっと行きたいと思いながらも、ついぞ行くことがかなわなかった路線だった。撮影地ガイド本を読んではあれこれ空想していた。もっとも、けっきょくは行かなかったのはおそらく相模線色が好きではないと思ったからではないか。電化されて205系電車が新製配備されてからは鉄道自体に興味を失ってしまい、所用で乗ったことはあってもいまだにきちんと撮影したことがないままだ。

相模線色のキハ35系気動車は自分にはそういう存在だった。それでも、八高線にその色のまま転属したことは知らなかったのでめずらしく思い連写した。それなのに連写したことを忘れていた。

だから、ひさしぶりに続きのカットを見てみると首都圏色のキハ35と2両編成を組んでいることを知っておどろいたのだった。




もっとも、ほとんどは3両編成から最大で5両編成で走っていたようだ。両運転台のキハ30は混雑度に応じて編成の組成を行いやすい存在だったのだろう。いくらラッシュアワー前でも2両編成で足りたのかな。当時乗っていて空いていた記憶もないけどなあ。電化して川越線と直通運転を行うようになってからはずっと4両編成だし、見ていると4両編成の座席がまんべんなく埋まるように思えるから。

この塗装のまま八高線を走ったのも短い期間だったようだから、たまたま遭遇できたことは幸運だったようだ。そして、八高線のこの場所がいまでも好ましいままであることもやはり僥倖といっていい。相模線にはいまさらながら205系電車が走っているうちに足を運ぶつもりだ。

【撮影データ】
Nikon F4S/AI Nikkor 35mm F2S, AI Nikkor ED 180mm F2.8S/PKR/Nikon SUPER COOLSCAN LS-4000ED/1992年9月