2013年2月10日日曜日

【1980年代国鉄119系電車:リバイバル記事】「するがシャトル」用119系電車のこと


水色にベージュの帯の119系電車も
塗装を改めて冷房改造されるとすっかりイケメンに

■おもえばバブル時代だったから
鉄分割民営化が迫った1986年ごろは国鉄工場や基地公開がさかんに行われていた、とは何度か書いた。分割民営化じたいは、当時の与党による野党基盤の破壊という政治的な目的があったという。

民営化の時点で幾度にも及ぶ運賃の値上げや労組のスト戦術などにより「国鉄は感じがよくない」と市井のひとたちに思われていただろう。それを払拭するためにも、国鉄や民営化したばかりのJR各社はネガティブな印象を払拭するために、親しみが持てる懸命な姿を示したかったのだろうと思う。

よく思われていなかった労組の組合員が民営化後にJRで希望職種につけず、退職を迫られた事例を身近で知っていた。そういうひとたちの一部が駅構内に設けられた飲食店で働いていた姿も見ているので、民営化当時に中学生でよく事情がわかっていなかった自分でも、国鉄分割民営化にはいろいろと複雑な気持ちにはなったものだが。

それでもいまよりは景気がよかった。だから、大規模な無料イベントがあちこちで行われていたのだろう。

さらに、これらのイベントが目についたのは自分の興味が以前よりも深まっていたからのはず。あたらしく一眼レフカメラを買ってもらい、中学生になってそれ以前よりも行動半径が広がり、情報収集のアンテナが鋭敏になっていた。だからなおさら、そういったイベント情報をよりキャッチしやすかったということもあるはずだ。

もっとも、残念ながらいまの私は腰の重いままだ。行動半径が狭い。大人になればより活動的になれるのかと思っていたけれど、そういう努力をしてこなかった結果、いまはますます腰が重い。やれやれ。

■119系電車にほれた
さて、1986年には都内在住で行動半径の狭かった私としてはたいへんめずらしく、沼津機関区(当時)の撮影会にも行っている。そこでは飯田線から転用されてベージュに赤い塗装を入れられ冷房改造された、飯田線用だったはずの119系電車が「するがシャトル」と命名されて公開されていた。施工直後でまだピカピカ光っていて、冷房を入れた車内が休憩室として公開されていた。このことは現地へ行くまでまったく知らなかったから、とても驚かされた。

それまで、119系電車は正直にいうと安普請の電車に思えて、あまり好きではないなと思っていた。ところが、簡易冷房改造ではなく集中冷房式に大がかりに改造されていた新車のように美しい冷房車の119系には一目惚れしてしまった。

Nゲージでは塗装が難しそうな赤いラインだ
■119系電車とは
この119系電車についてのくわしい説明は各自参照していただくとして、簡単に説明すると、飯田線の旧型国電置き換え用に、2両単位で運用できるローカル線用通勤電車105系をもとに飯田線仕様に国鉄末期に作られた電車だ。

105系と異なるのは車内アコモデーションがセミクロスシートであること。それに応じて窓割りも変更されている。駅間距離が短い飯田線に特化して高速性能はあまり重視しない走行性能を持たされ、コストダウンをはかるために101系などの廃車発生品をあちこちに用いていることが特徴だった。冷房装置も新造時は装備されていなかった。いくら飯田線だって夏は暑かろうに。

そうしてこの電車は旧型電車ばかりが走っていた飯田線用に、新たに水色にベージュのラインを巻いて装いも新たに登場した。当時そのベージュのラインは塗装ではなく、ステッカーだったのがめずらしかった。ずっと旧型電車ばかりが走っていた飯田線のイメージを更新した電車ながらも、各種旧型国電を置き換えた敵役として、登場したころは国鉄ファンの怨嗟の対象だったといっていい。



■地味な電車が東海道本線の区間列車に大抜擢! 
飯田線に登場直後の119系に乗ったことは一度だけある。家族で豊川稲荷に出かけたときに豊橋から豊川までの数駅間に乗った。乗り心地は当時山ほど走っていた直流近郊型電車そのもので、とくに印象に残ってはいない。台車もコイルばねだし。

なにしろ101系電車も103系電車も、あるいは近郊型の113系電車も115系電車もめずらしくなかったころだ。だから、新しいのにのろいしいまひとつあか抜けない電車だなあ、という印象は子ども心になんとなく残っている。

でもそれはバイアスがかかっていた可能性は否定できない。「コストダウンを図った安普請電車」「119系は旧型国鉄電車ファンの敵」「ガンダムは……敵!」として、鉄ヲタ少年にはネガティブな印象ばかりあったかもしれないから……中二(ニュータイプ)ではなかったはずだけど。

そんな、あか抜けない印象だったはずの119系電車に、沼津で再会したときの驚きはうまく言い表せない。非常に通俗的な言い方をすれば、あかぬけない印象で同じクラスにいても名前くらいしか知らず、言葉をかわしたことがあまりないようなクラスメートに、卒業後に同窓会や町で出くわしたような感じ。そのさいに、彼または彼女の服装(女性ならメイク)があか抜け、ものごしにも自信があふれて、社交的になっていた姿を見たときのおどろきに近い。

男性でも女性でも「あ、このひと『デビュー』したんだ!」と思わせる、あれです。

というのも、119系電車は飯田線専用に新製されたはずが、なんでも東海道線の静岡県内の区間を走る区間列車「するがシャトル」用に転用され、そのためにベージュ塗装に赤いラインを入れられて冷房改造されていたのだ。そして、鉄道雑誌にもまだその情報は掲載されていなかった。工場から出場したばかりのぴかぴかの車体で、非冷房だったはずが冷房改造されて停まっていたのだから、印象が多いによくなった。

しかも、のちに主流となる分散型冷房装置による簡易的な冷房改造ではなく、AU75集中式冷房装置を積んだ、本格的な冷房改造だったところも非常に好印象を与えた。ものすごくヲタな視点だ。

沼津へはたしか、西日本各地の旧型電気機関車を見に来た。竜華機関区(当時)などのふだん見ることができない旧型電気機関車が集まるというふれこみの撮影会だったのだ。大阪よりも沼津なら近いから、と心配性の親を説得してやって来た。

それが、見たことのない姿で新車のような119系電車を目にして、こちらにすっかり惚れ込んでしまった。Nゲージで作りたくていろいろ撮ったのが、いまみなさんにお見せしている写真だ。



■やっぱり地味な子は地味なのかも
もっとも、そのあとにこの電車が東海道線で運用を開始してからは撮っていない。自分が鉄道趣味から離れてしまったからでもあり、なおかつ東海道線での活躍はわずかな期間で終わったそうだ。

東海道線で高速運転をするには低速重視で作られた仕様が運用上に脚を引っ張ったために、東海道線での運転は短期間で終了したという。しかも、冷房改造により自重が重くなったことも速度が出せない原因になったそうだ。

冷房改造をするさいに電動機の交換や編成のMT比は変えられなくても、せめて歯車比を変えることはできなかったのかと思うのは、しろうとが事後に思うゆえだろうか。

国鉄末期の車両の転属には、そういう残念な事例がいくつかあるように思える。長らく東海道線で荷物列車を牽引していたEF58を置き換えるために、信越線用に作られたEF62を転属させてみたら、やはり東海道線での高速運用にEF62が耐えられず初期故障が頻発したというのも、そのひとつ。

鉄道車両も機械なのだ。汎用的に作られたものではなく、どこか特定の路線の性格に合わせて作られたものをよそで使うというのは、当初の目的と離れてしまうと難しいのだろう。予想できなかったわけではないだろうが、それでも、特定路線向け車両でも転用改造をして用いたのは、それほど車両の新製が困難だったという台所事情があったのだろう。


EF30などの西日本の機関車も見ることができた

結局この「するがシャトル」用編成もすぐに飯田線に戻され、JR東海の時代にはベージュに湘南色の帯のオーソドックスな塗装になっていたようだ。そのころは鉄道趣味から離れていたころなので、飯田線にその姿を見に行こうとも思わなかった。自分の腕では塗装できそうにないと思ったこともあって、Nゲージで作ることもしていない。

その後飯田線で見かけたのは2000年代になって、出張で飯田まで出かけたときだけかもしれない。

119系自体は飯田線を走り続けた。さいわい、いまではえちぜん鉄道に数編成がインバータ制御に改造されて走っている。そう思えば東海道線への転用は失敗でも、飯田線の仕様にはマッチした電車としての成功例なのかもしれない。

さらに、えちぜん鉄道でも走っているのだから、意外と長命だ。地味で安普請な電車とかいってすまなかった。反省しながらその姿を見に行くのもいいかもしれないな。

なにしろ、気になる存在のくせに、自分の好意を示しそこねて……というのは人間相手でさんざん……(以下略)

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