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2024年3月10日日曜日

【秩父鉄道1980年代】SLパレオエクスプレス運転開始のころ


■1988年(昭和63年)4月1日の秩父路
もうすぐ2024年の秩父鉄道SLパレオエクスプレスの運行が始まる。3月8日付け発表の報道資料によると今年は4月13日(土)、14日(日)、20日(土)、21日(日)の4日間はJR東日本ぐんま車両センター所属の旧型客車4両を借用して運行されるそうだ。同リリースにもあるように、SLパレオエクスプレスの運行開始時から1999年までは、旧型客車で運行していた。今回運用する旧型客車のうちの1両スハフ32-2357はそのときにも用いられていた。

私はこのSLパレオエクスプレスの運転開始された1988年春までは、秩父鉄道に夢中で通っていた中学生だった。春の運行開始直後にも数枚だけ旧型客車を牽引するC58363の姿を撮影している。

2022年6月22日水曜日

【秩父鉄道いまむかし】急行『秩父路』用300系電車のタブレット保護棒と保護板と100形電車の中央の運転台、そして武州中川駅と武州日野駅の進行方向

1985年10月1日撮影の300系電車デハ302号(下り三峰口方)
このころの写真では上り熊谷方デハ301号の助手席側のみ保護板がない

■300系電車の運転室次位の窓にある保護棒と保護板のこと
先日Twitterで話題にもしたが、秩父鉄道の有料急行『秩父路』号に1992(平成4)年まで使われていた300系電車のうち、両端の制御電動車デハ300形の奇数偶数の両車の運転室次位の客室窓には、二本の保護棒が渡されその上には保護板が設けられていた。過去に投稿した写真にも写っている。ただし、熊谷方のデハ301の助手席側の保護板は1985(昭和60)年の写真では取り外されている。

2021年1月23日土曜日

【秩父鉄道2010年9月】長瀞オートキャンプ場で秩父鉄道100形電車に会った日


【おことわり】本記事は2010年9月に旧ブログで公開していたものを加筆したものです。2021年1月の本稿改稿時にも秩鉄100形電車の車体は長瀞オートキャンプ場にて用いられているようですが、リニューアルにより外観や内装が2010年の状態とは変わっています。また、昨今の情勢により宿泊ができないこともあるようです。弊紙は旅行情報サイトではありませんので情報のアップデートが必ずしもできているわけではありません。ご利用になる際には公式Webサイトも必ずご覧いただき、宿泊可否や営業状況などの最新情報をご確認くださいますように、お願いいたします。

■秩父鉄道100形電車とふれあった週末
2010年9月上旬のとある週末のことだ。秩父鉄道100形電車をひさしぶりに見てきた。白昼夢や妄想、模型ではない。実物の秩鉄100形電車だ。秩鉄100形は1988年に引退し、2019年まではそのうち2両が三峰口駅に保存されていた。あの半鋼製電車のことだ。この電車が撮りたくて中学生の私は秩父鉄道に通っていた。そう過去のエントリーに書いた。

今回はもちろん三峰口にも行った。だが、これから書くのは三峰口の保存車両のことではない。私が出かけて100形電車を見たのは長瀞だ。そしてこの電車は2021年1月のいまでも健在のようだ。

2019年5月9日木曜日

【秩父鉄道1980年代】さよならは別れの言葉じゃなくて……秩鉄100形電車のこと


■大好きだった電車、ほんとうにさようなら
先月半ばに秩父鉄道から「『鉄道車両公園』のリニューアルについて」と発表され、すでにあちこちで記事にされているように、三峰口駅構内の鉄道車両公園に保存されている100形電車がまもなく解体されることになりそうだ。具体的に100形電車を解体撤去するという発表ではなく、プレスリリースによれば「公園リニューアルに向け、老朽化が進み安全の確保が難しくなりました展示車両につきましては、部品等の一部保存や写真等による資料化の後、誠に勝手ではございますが撤去させていただくことと致します」とあるだけではあるものの、2014年の平成26年豪雪のころに100形の室内の天井板が落ち、戸が破れているのは見ていたので、デキ1、ED381とともに解体されるだろうという想像はつく。

もちろん、私だって解体されるのは惜しい。自分に資金と土地とバイタリティがあるならば買って自分で保存したいくらいだ。だから、正直にいうと矛盾したふたつの思いにかられているのはたしかだ。とはいえ、1988(昭和63)年に廃車になり、1989(平成元)年3月に鉄道車両公園が開園してここに運び込まれて以来、ずっと屋根もなく雨ざらしにされてきて、むしろ30年ものあいだよくぞ崩れずにいたとさえ筆者は思う。この気持ちにも嘘偽りはない。いち営利企業に文化財としての保存コストを丸投げして、ずっと維持させて払わせ続けるのは無理があると思うのだ。

2015年1月10日土曜日

【西武鉄道1980年代】1986年8月、西武秩父線の主役たちと秩鉄クハニ23号

E851(851号機)、横瀬

■1986年の西武秩父線
さて、先日のエントリーでは1986年8月に秩父鉄道300系電車を見たこと、そしてその際に秩父鉄道線内で乗った電車が国鉄から乗り入れてきた115系電車の上野発の臨時列車『みつみね』号だっということをお話しした。ちなみに、どうして『みつみね』号とわかるかというのも簡単だ。ヘッドマークこそ掲出されていなかったが、側面サボにそうあった。そして、当時の私はそれを写してもいるのだ。ただし、そのカットは超露出アンダーのカットなのでお目にかけるのがはばかれるのが申し訳ない。

そして、行き帰りの西武線内で写真を撮ったことも書いたのだから、改めてそれをごらんに入れるべきだろう。

2013年12月12日木曜日

【1980年代末の秩父鉄道】秩父100形電車のこと その3

デハ100側の走りをちゃんと撮れた数少ない例

■SLパレオエクスプレス運行開始のころの秩鉄100形電車
度か書いたように、秩鉄100形電車はパレオエクスプレスが走り始めた1988(昭和63)年6月に運用を離脱した。いま、本稿を書くにあたり手元の『鉄道ピクトリアル』誌1998(平成10)年11月号特集を参照してみると、1988(昭和63)年2月20日づけでデハ105、クハ67、クハニ25が廃車になり、3月以降に残っていたのはデハ101、デハ109、デハ110、クハニ22、クハニ24、クハニ29II(いずれも廃車は1988(昭和63)年9月15日)とある。2両編成を2本組み合わせた4両編成が最末期には、羽生・熊谷<デハ+クハニ+デハ+クハニ>三峰口だった記憶があるから、1988(昭和63)年春にはすでに4連を組んで運用していたのは1運用だけだったという記憶とも合致する。

そして、この100形はSLパレオエクスプレスに雁行するかたちで運用に入っていた。いまも1000系電車がしばしば、熊谷をSLパレオエクスプレス5001列車のあとに出て、秩父で追い抜く運用に入ることがある。それを彷彿させる運用だ。そのころからきっと秩父鉄道の運用さんはそれを意図していたはずだ。

2013年12月6日金曜日

【1980年代末の秩父鉄道】秩父100形電車のこと その2

クハニ29を正面から(1987年8月)

■リバーサルフィルムのなかでいまも秩鉄100形電車は走り続ける
父鉄道100形電車や急行形の300系電車が気になり始めたころは、私にとってはちょうど一眼レフに交換レンズとリバーサルフィルムを用いて本格的に写真を撮り始めた時期でもある。思えば運がよかったのは、コダクローム64(当時あったフィルムの略号でいうと「KR」)で100形電車を少しだけでも写真に残すことができたこと。

そのおかげで、25年ほどたってもコダクロームのなかで、100形電車は色褪せることなく走り続けているかのようだ。

2013年12月5日木曜日

【1980年代末の秩父鉄道】秩父100形電車のこと


コニカFP・ヘキサノン52ミリ(1985年8月)

■秩父になにかと縁があって秩鉄に惚れた
年時代を振り返ると、いまの自分の「秩父鉄道趣味」をかたちづくった理由のひとつに、なにかと家族を秩父へ遊びに出かけた機会が多かったことがあげられるだろう。自家用車を所有しない家で育ち、それが西武沿線在住であれば、秩父は当時おそらく西武鉄道が旅客誘致に力を入れていた観光地でもあったし、電車一本で行けるわりに変化のある、行きやすい観光地だったからでもあるだろう。

2009年6月1日月曜日

【秩父鉄道1000系撮影記事】「秩鉄リバイバルカラーデハ100形タイプ」撮影記 後編

AI Nikkor 180mm F2.8S

■地元のみなさんと世間話をすべし
タンカタンカタンカタン……レールのジョイント音を大きく響かせながら、カーブを曲がってきた電車は警笛を鳴らして目の前に現れた。速度が予想外に速くてドキドキしながらカメラで追った。

2009年5月31日日曜日

【秩父鉄道1002編成撮影記事】「秩鉄リバイバルカラーデハ100形タイプ」撮影記 前編

Ai Nikkor 50mm f/1.4S

■秩父鉄道で20年ぶりに鉄道を撮る
そらく、20年ぶりに秩父へ行った。それも、鉄道を撮ることだけを目的にして。

鉄道を撮ることだけを目的に秩父へ行ったのは、1988(昭和63)年春のデハ100形電車引退直前の桜の季節に行ったのが最後だ。それ以降も秩父へはなんども出かけている。だがそれはいつも観光や子連れでのおでかけがおもだった。鉄道撮影に出かけたのは20年ぶりだ。いやはや、20年なんてあっという間だった。

2008年9月15日月曜日

【秩父鉄道PETIT撮影記事】Nikon F2を持って鉄道撮影に行くという「ゆめを叶えた」



■F3の時代の少年はどういうわけかF2がほしいと思っていた
「ゆめを叶える」とは大げさな言い草だ。だが、よく考えてみると長年願ってきたことをしたわけで、やっぱり「ゆめが叶った」わけか。

少年時代の私はニコンF2を使ってみたかった。不思議なもので、私の少年時代はすでにF3の時代であり、周囲にF2を持っていた人物も特にいない。それなのにどういうわけか、憧れていたのはF3ではない。きっと、現役で使えるのに見た目がクラシックなところに惹かれていたのだろう。「少し古いものが好き」という好みはそのころからすでに自分にはあった。