2022年3月5日土曜日

戦争はいやだ

■引き裂かれるような気持ち
さる2月24日にロシア連邦軍がウクライナ領内に侵攻を開始して以来、自分の胸にわき起こる気持ちをどう表現すべきか考え込んでいる。

かつて私はスラヴ文化研究者の卵だったから、ロシア、ウクライナそしてベラルーシの3つの東スラブ文化圏の文化、そこに生きるひとたちにたいして愛着がある。その彼らの政治指導者たちが、正義は我こそにありと各々が主張して、それぞれの陣営が攻撃し合うようすは見ていてとてもつらい。

そしてなにより、ソ連崩壊後の混乱を経て、彼らが憧れていた西側の消費生活を享受できるようになり、ようやく平和に暮らせるようになったひとたちが、いままた戦禍に怯えて暮らさなければならなくなったようすを目にして胸が痛む。ポスト冷戦時代が終わり、いまや「ポスト・ポスト冷戦時代」なのか。

30年間かかってようやく「ソ連帝国」の残滓が完全に解体されるときがやってきた、ということなのかもしれないな。

■武力で相手をコントロールすることには同意できない
2014年のウクライナの首都キーウ(キエフ)での政変以降、ロシア軍のクリミア侵攻とドンバス紛争のころよりロシア政府とウクライナ政府はお互いに敵対的な政策を取り始めてから、私はそれらに言及しなくなっていた。政治指導者たちのどちらにも、共感できなかったからだ。

むかしから潜在的に存在したロシア側の大ロシア主義とウクライナ側の自立志向という民族主義的対立に、地政学的な要素が加わって、対立がいっそう先鋭化して行くのを見るのがいやだった。どちらもいい加減にしてくれよ、と心底思ってうんざりしていた。

それから8年経ち、事態は収束して行くどころか悪化して、戦争がついに始まってしまった。さすがに、ここまで対立が悪化することはさすがに予期できなかった。

それ以来SNSやニュースを見るたびに、私が親近感を抱く両陣営のひとびとが戦場に駆り出され、戦禍が報じられるのも見ていて心痛むし、お互いに情報戦を行って「相手がどれだけ残虐であるか」と報じあっているようすを目の当たりにしては、眉をしかめている。

コロナ禍の日々に私がもっともうんざりしていたのは、ウイルスや病気になることだけではなく、さまざまなひとびとの分断を目にすることだった。私がここでできるだけ「コロナ」という単語を使わないでいたのは、そういう理由だ。さらなる分断を目にするのは、心底気が滅入る。

寡頭資本家(オリガルヒ)と政治家が結びついて利益誘導ばかりを行い私腹を肥やすような政府はいやだ。だが、だからといって治安警察の力を借りて行う強権政治ももっといやだ。そして、腐敗している体制であることを理由にして外国が武力でそれを倒すことにも、私にはまったく同意できない。

それはまさにインテリゲンチヤの正しい態度だ。教育を受けたものは世の中をよくしようと努めなければならない。そしてそう考えると、私は自分の態度を恥ずかしく感じた。私などは国外にいるもと地域研究者の卵でしかない。だがそんな私でもこの危機的な事態にたいして立場を表明しないことは、戦争に反対しない、つまり消極的に戦争に賛成していると見なされかねないだろう。ニーメラーの有名な詩を思い出した。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、
私は声をあげなかった 
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、
私は声をあげなかった 
私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、
私は声をあげなかった 
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 
私のために声をあげる者は、
誰一人残っていなかった
(ニーメラー『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)

■独裁者を倒すだけでは権威主義的体制は変わらない
ただそこに住んでいるというだけの理由で戦闘に巻き込まれて命を落としたり、命令を受けて戦場に駆り出される、戦場で民間人相手に残虐行為を働く、あるいは窮乏生活を強いられるようになる、どちらの側のひとびとを思うとてもつらい。国連憲章違反のロシア政府の行動を既成事実化しないためには、武器を手にとって戦場で戦うべきだとウクライナに住むひとたちに強いるのもつらい。

だから、ロシア政府のやり方に私は反対だが、それによって苦しんでいるひとたちへの連帯を示すにも、どちらか、あるいは両方の国旗を掲げるようなことは私はしたくはない。そこで思い悩んだすえに、私も私なりの言い方で態度の表明をすることにした。

戦争はいやだ
たのむからやめてくれ

難しいことをあれこれ考えず、簡単にそういえばいいだけだ。悩むことはなかった。

「最悪の民主政治であっても最良の独裁政治に勝る。なぜなら民主政治には権力の暴走を止める制度がある。いっぽう独裁政治がよいものであるには、指導者の属人性にのみ依存する。それは危険だ」とは『銀河英雄伝説』のなかでずっと作者が問う主題のひとつだ。「独裁政治が支持されるのは民衆が楽をしたかったから」とも。いままさにそのことを考えている。

独裁者を倒すだけでは権威主義的体制を変換させられない。独裁者が「独裁できる仕組み」が残っていては「次の皇帝」が即位するだけだ。そう思うと、たんに即時停戦してもこの事態は火種がくすぶり続けてしまう。内外に暴力を使い続けないと維持できない「帝国」を彼の地に住むひとたちが、彼ら自身の意志で平和裏に変えていかないといけない。強力な独裁制度がないと存続できない帝国であるならば、その帝国は住人自身が納得したうえで彼ら自身の手で平和裏に解体されなければ、独裁制は生き続けてしまうのではないのか。

それもまた、その過程で流れるであろう血を思うとつらいのですよ。だからといっていまの危機のままでいるわけにはいかない。こういうのは、DV被害者やカルト宗教被害者を支えるひとたちの気持ちに似ているかも。


リンク先はペレストロイカ時代の「伝説のロッカー」だったヴィクトル・ツォイ "Перемен(変化)"をタイーシア・アシュマーロヴァがカバーするビデオ。"Перемен! - требуют наши сердца / Перемен! - требуют наши глаза(私たちの心が、瞳が望んでるのは変化だ)"のあたりが、ペレストロイカの時代だけではなく、いまこそ必要なんじゃないかな。