2018年2月12日月曜日

【カメラ趣味にまつわるチラシの裏】「エピソードを買う」つもりで


 このところ、細かいいろいろな用事が積み重なってしまい、すっかりブログ更新が遅れてしまった。たまにお越しくださるみなさん、お待たせしてごめんなさい。

■困るのは「半端に古い」もの
 さて、今日はひさしぶりに写真趣味ではなくて「カメラ趣味」のことを書こうと思う。筆者は以前はたくさんのカメラを所有して「でへへ」と照れ笑いを浮かべる趣味があった。いや、でへへと照れ笑いをすることは趣味ではないけれど。とにかく、写真を撮ることが趣味でもあると自認していても、写真撮影には道具が必要なので、その道具への興味からどうしても(といういいわけ)。とはいえ、そう高価な品物を持ってはいないので、あらたにカメラを入手しても下取りをせずにいて、その結果としてどうしても自宅にはいろいろなカメラとレンズが増えていく。もっとも、ここ10年ほどは暮らしが変わったこともあって、必要以上にカメラを増やすことをしなくなった。赤さんもいたからね。自分の楽しみだけへの消費はあまりしたくなかった。


 とはいえ、コレクター趣味があるわけでもないし、使わないでいると機械は壊してしまうことが増える。そうして、すべての機材のコンディションを維持し続けるのももはやむりだ。そう思って、先日からわずかに機材の断捨離を進めている。たとえば、7001台しか製造されなかったソビエト初の絞り優先AE搭載一眼レフであるZENIT-18と専用の標準レンズであるMC ZENITAR-ME-1 50mm F1.7はすでに動作しないこともあり、最低限の現状のコンディションの維持でさえ私には不可能だと思い、日本カメラ博物館に寄贈した。工業製品として後世に個人レベルではなく残されるに値すると思われたからだ。また、あれだけ好きだったのに使わなくなっていたNikon 1 V1薄型レンズキット(1 NIKKOR 10mm f/2.8が付属するキット)と1 NIKKOR 18.5mm f/1.8も友人のところにお輿入れした。いや、これはむしろむりやり押しつけたのかも。

 いちばん扱いに困るのは、古くなったデジタルカメラかもしれない。レンズ交換式のフィルムカメラであれば、できるだけ新しいレンズを装着して最新のフィルムを使えば画質のアップデートができた。デジタルカメラは基本的には新しいカメラであればあるほど画質も動作も向上する。古いデジタルカメラはよほどの理由がないと使いづらいのだ。

■ルサンチマン的消費かも
 筆者は「カメラ・写真業界ムラ」の端っこにしがみついているような人間だ。この仕事をして知り合うみなさんには、仕事がカメラや写真に関連していても、趣味も写真やカメラだというひとは少なくない。先日も、そんなほぼ同年代の友人たちと数か所で話していて、いまさらながら少年時代の頃にほしかったフィルム一眼レフを手に入れたいという話題で盛り上がった。ペンタックスMXやLX、オリンパスOM-3、コンタックスRTS、ニコンF3、キヤノンNew F-1などの、日本の高品質フィルム一眼レフが完成した時代の製品群は、いま見てもまぶしい。少年時代には手に入れることができなかったこれらのカメラは、中年になったいまならばコレクターズアイテム的な超美品ではない限り、入手はそう困難ではない気がしてついついふらふらと手に入れそうになる……。

 だが、機材を不必要にたくさん増やすのは自分の美学に反する気がする(苦笑)、というのはすでに常用にできる機材が十二分に手元にあるということもあるけれど、それぞれ、コレクターではないつもりだから。しかも、2018年にもなれば、フィルム一眼レフは趣味の道具にしかなりえない。彼らも筆者も写真を撮ることをおもに楽しみたいという気持ちがあるひとたちだ。だから、もしこれらの機材を入手しても業務用フジカラーのネガフィルムではなくて、ポートラで撮りたいね! とか、モノクロは自分で現像するというひとたちなのだ。わかるかなあ、この微妙なちがい。わからないだろうなあ。コレクションが目的のひとだと、そもそも撮影はしないだろうし、撮影するとしてもせいぜい近所の路地やキーボードしか撮らないでしょう。この仲間はそれよりは本格的に撮影に行く連中ということ。

 もっとも、撮影をしないけれどカメラを集めたいというひとと、根っこの気持ちは変わらないはずだ。それはいずれにせよ「いまに手に入れてやるんだ、くやしい! みていろよ!」という少年時代のルサンチマンをいまごろ解消したいという気持ちなのだ。妬みとか恨みめいた気持ちは美しい感情ではないし、おおっぴらにしてカッコよくはないけれど、だからといってそれを隠して「たくさんのカメラを買いたがるなんて、自制心が効かないだらしないやつだ」などと正義を振りかざしているよりも、正直でいいのではないか。というのは、私は以前はそういうひとたちに「Yeah!Yo!そんなお前の独占欲。子どもっぽさ全開のむき出し。それを見ていてマジドン引きDAZE」などとdisり的な言動もたくさんしたので。正直に認めます自白します完落ちですごめんなさいごめんなさい妬ましいだけです嫉妬です嫉妬自分の稼ぎの悪さと甲斐性のなさを正義のふりをしてdisっていました認めます認めます妬み嫉み悪意嫉妬でございます。とびどぐもたないでくなさい。もちろん、自分の可処分所得が多くて広大な自宅があればがんがんと札びらを切る可能性はあるし、それができないところも妬ましいですけど! はい、たくさん所有できるひとがうらやましいだけで、それについてすなおにうらやましいし、たくさん所有したいならば、それはいいんじゃないでしょうか。


■入手方法を工夫するというのはどうかな
 そこで、襟元を正してこの友人たちと話していて私が提案したのは、ネットオークションやネットショップでポチるのは簡単だから、おもしろい入手方法が得られるときにしぼってほしいカメラを手に入れるのはどうか、ということ。やせ我慢の提案、と書くと元も子もないので、ゲームのように考えてみるというのはどうだろうか、というもの。知人や友人から譲ってもらうとか、出張先や旅先で立ち寄った雰囲気のいいお店で見つけたとき、などの素敵なエピソードの得られそうな場合に入手するのは楽しめるのではないか。たとえば、東京や大阪などの大都会ではない都市、あるいは海外で、旧市街で運河や川に面していているような雰囲気のお店に並んでいて、声をかけたらお店の主人が気さくだったとか、店の近くに落ち着いたたたずまいの喫茶店があるとか。あるいは、某リサイクルショップのジャンクコーナーで見つけて修理してもらった、というのでもいい。おこづかいの範囲内というように値段に制限をつけるのだっていい。もちろん、最終的には消費するのだし、対象商品に強度の思い込み補正をかけるだけで、たんなる入手のいいわけなのだけど。入手までにカッコつけて知恵を絞るほうが「なんとなく頭がいい感じがする」とは友人の弁(心優しい友人たちを持って幸せだ)。我慢を粋と称し、その粋であろうとするのは、オジサンになった証拠だ。

■最後は俺自慢ですまぬ
 こうした「エピソード買い」の例として、最後の最後は俺自慢で締めさせてもらう。写真に写っているNikon F2のボディとレンズは、親戚の大学の研究室からの払い下げ品だ。そうして、モータードライブMD-3はチェコ・プラハのフォトシュコダで購入した。MD-2は不動品だが、友人がとある写真家より払い下げられたもの。最近はすっかりネットオークションをしないけれど、アイレベルファインダーはイギリスのセラーから、バッテリーホルダーMB-1はアルゼンチンのセラーから購入した。ネットオークションというのはさっき書いたことに矛盾するけれど、世界中から里帰りしたF2のパーツというところがおもしろい……とは思いませんか。しかも、当時はセラーたちとのやり取りももっと牧歌的で、イギリスのセラーに「届いたよ、ありがとう」とメールしたら「ロイヤル・メールで送ったのにそんなに早く着くなんてすげえ」というレスが来るとか、アルゼンチンのセラーには何かの祝日のお祝いをしたり、なんていうエピソード*もある。そう、やっぱり大切なのはモノ自体ではなくて、それにまつわるエピソードの有無なのだ(むりやり)。なお、ストラップはかつての距離計連動式カメラ用の銀一ストラップだ。このストラップだって、職人さんが亡くなってしまったそうでいまや入手困難だ。

 けっきょくはこうした、安価にパーツごとに手に入れる入手方法だって、分割払いをしているようなものだから、カッコイイかどうかは本人の思い込みだけでしかないけどね……。どう見ても、まるでペプシコーラが入手できるようになる前のソビエトで「コーラはなくてもクワス(黒パンに砂糖と酵母を混ぜて作った微炭酸の飲み物)があるさ」というやせ我慢をしていたような。本日のエントリーはたいへん歯切れが悪く終わります。

*ネットオークションでいい思い出を得ることができたのはざんねんながら昔の話だ。とくに、国内某オークションでは数年前に塾生と称するネットワークビジネス集団らしき連中が程度の悪いジャンク同然の品物を適当にタッチアップして大量出品し、希望価格で落札されそうにない場合は終了間際に取り消す、返品に多額の手数料を取るなどということを行い、さらにその「ノウハウ」を情報商材として売るようすを見ていて、いまや私にはすっかりネットオークションをウォッチする気持ちもなくなってしまったし、そこで商品を買うこともおすすめできなくなってしまった。最近の状況は私は知らないけれど、ネットオークションはおすすめしたくはない。

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