2021年1月28日木曜日

【西武鉄道2010年から2012年】西武狭山線のことと、そこを走っていた新101系電車について

2010年4月。土曜日の早朝

■西武狭山線で新101系電車が走っていたころの話をしよう
旧ブログでは何度も記事にしていたのに現在のこのブログではまったく取り扱うことを失念していたもののひとつが、西武狭山線だ。カテゴリさえ設けていなかった。筆者が少年時代の鉄道趣味に出戻りした2009年ごろから2012年まではここを新101系電車が定期運用として走っていて、池袋線の撮影にあきると狭山線に通っていたものだ。


そのころは記事にしていたのに新101系電車が走らなくなって行くことがなくなった。そこで、当時の写真を再掲載しながら、狭山線について思いを馳せたい。もしまた通うことになったときのために復習しておかないとね。

■狭山丘陵は西武グループを大発展させた一大根拠地
西武狭山線は全長4.2kmで池袋線西所沢から下山口を経て山口貯水池(狭山湖)堰堤にほど近い西武球場前までを結ぶ。武蔵野鉄道が1929年(昭和4年)に山口線として開業させた。戦時中に不要不急線として休止したのち1951年(昭和26年)に狭山線と改称して運行を再開した。

「狭山線」といっても起点の西所沢駅から終点の西武球場前駅まではすべて所沢市内にあり、狭山丘陵や山口貯水池(狭山湖)も狭山市内にはない。村山貯水池(多摩湖)近くの東京都立狭山自然公園(東京都東大和市、武蔵村山市、西多摩郡瑞穂町)と隣接する埼玉県立狭山公園(埼玉県所沢市、入間市)も同様だ。むしろ1954年(昭和29年)に市制発足した、ここから離れている埼玉県狭山市(当時の入間郡入間川町、入間(いりま)村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村)がなぜそう名乗るようになったのかという命名の由来についての興味が湧くが、このエントリーでは西武狭山線だけの話題にとどめたい。すごく話が長くなってしまうから。

狭山丘陵にはかつては里山の風景が広がっていたという。いまでも野山北・六道山公園などに行くとその雰囲気をしのぶことができる。東京の水源確保が必要になった際にこの地形を利用して作られた貯水池が村山貯水池(1927年(昭和2年)完成)と山口貯水池(1934年(昭和9年)完成)だ。

この貯水池一帯をレジャーの目的地として活用することを武蔵野鉄道と箱根土地、旧西武鉄道はまず考えた。その結果として三社が狭山丘陵へのアクセス路線として設けたのが、いまの狭山線、多摩湖線、西武園線だ。合併して誕生した西武グループは狭山丘陵でさらに住宅地の開発も行った。だから狭山丘陵は西武鉄道を大きく発展させた一大根拠地といっていい。

Google Mapよりキャプチャー
下山口駅付近からは住宅地に囲まれている

Google Mapよりキャプチャー
狭山線下山口駅の北西が椿峰。南東が荒幡。線路は両者の谷になる部分にある

■西武狭山線の線形がおもしろい
さて、歴史に思いを馳せるばかりではなく、被写体や撮影地としての狭山線を考えてみよう。狭山線は1980年代に開発された椿峰ニュータウンのある丘と荒幡富士のある丘を避けて谷の部分に敷かれている。丘陵を避けて山口貯水池の堰堤に向かうために曲線を描いているのだろう。

2010年4月、こちらは夕方

西所沢からまず急曲線で身をくねらせるようにして列車は走り出す。線路は単線だ。西所沢は所沢の繁華街のはずれで住宅地に接するあたりにあるので、駅前や駅周辺に大型小売店舗がなく、商店街がわずかに残されているのでどことなく懐かしさがある。

2010年4月

2010年4月、駅近くの商店のウインドー

2010年4月、小さな踏切も魅力的

急曲線を曲がると列車は切り通しのなかにある勾配を下っていく。池袋線の小手指にかけての車窓から狭山線方向を見てもわかるが、所沢は台地の上にあり狭山線は丘陵に挟まれた谷間へ降りていくことがみてとれる。

小さな踏切と畑のなかにたつ住宅地を見ながら入間所沢バイパスと線路は交差する。このあたりからは住宅がふたたび増えて住宅地のなかを列車は走って下山口に着く。列車の撮影のしやすさでいえば、まずは西所沢寄りのほうがなにかと絵にしやすい。

2012年11月、西所沢へ去りゆく列車を通過後に

2010年4月、住宅のあいだに茶畑があるのが狭山茶の産地という感じ

2010年4月、切り通しにも小さな踏切がある

2010年4月、アブラナの写し方が下手だな

2010年4月、切り通しの奥でバイパスと交差する

下山口は住宅地のなかにある小さな駅で、上下の列車交換を行う。駅周辺には住宅地が密集して広がるほか、丘陵の上の椿峰ニュータウンにも近い。もっとも椿峰ニュータウンは丘の上にあり小手指からバスが頻繁に出ているので、そちらを使うひとのほうが多いだろうか。小手指から自転車で椿峰を抜けようとすると標高がそう高い丘陵ではないものの、かなり汗ばむ。

2010年1月、下山口。こちらは4両固定編成

下山口付近で柳瀬川に線路は沿っている。柳瀬川の源流は山口貯水池の水道用地にあるそうで、山口貯水池も柳瀬川の侵食でできた地形を利用して建設されたという。だから、狭山線の線路も柳瀬川の侵食で谷間になった部分に敷かれていると考えていいだろうか。

また、柳瀬川と線路が近づくあたりの県道55号線に山口城址前と名づけられた交差点があり、商業施設の端に所沢市教育委員会が設置した記念碑と説明文がある。それによると山口という地名も「狭山丘陵の入り口」という意味なのではないかとある。

ここからは線路は埼玉県道・東京都道55号所沢武蔵村山立川線に並行して走るが、住宅に囲まれており線路沿いに道路があるわけではないので線路に接近しづらくて写しやすいとはいえない。むしろ私の手には余る。県道55号線と線路が接するあたりで狭山線は西武球場前駅に向けてふたたび曲線を描く。ここでようやく写真も撮りやすくなる。曲線を抜けると線路は高架線を登り始め、登り終わったところが西武球場前だ。

2012年11月、優しい貼り紙

2012年11月、数千年後に考古学者が悩むかも

■赤電のころはどうだったのか
筆者はこの狭山線にはじめて乗ったのは1980年代前半の野球観戦だったはず。まだ小学生で西武鉄道の車両の形式名を知らなかったものの、そのときには所沢から乗ったのは赤い電車(いわゆる旧型電車)だった。ナイトゲームの試合を見るために西武球場に出かけるのに、所沢から乗った西武球場前行き直通列車は楽しみにしていた冷房車ではなかったことから、落胆してかなり鮮明に記憶している。池袋線にしか当時は走っていなかった黄色い電車である101系電車の冷房車に乗りたかったのだ。しかも、この直通列車も朝のラッシュアワーのような満員列車で蒸し暑かった。

所沢から西所沢にかけて新宿線を越える大きな曲線の内側に、当時の西武所沢工場に入場するためなのか、クモハ351形とクハ1411形の形態も車体の長さも大きくことなる凸凹な2両編成が2編成ほど留置されているのを西武球場へ行く直通列車から見たことははっきりと覚えている。いま思えばそれは上毛電気鉄道へ譲渡される車両だったはずだ。野球観戦からの帰路もやっぱり非冷房の赤い電車だったなあ。ただし、夜になっていたことと試合終了後の西武球場前からの始発列車はそれほど蒸し暑くは感じなかった。

2012年11月、55号線と線路が接するあたり

2010年8月、勾配を登って西武球場前に。いまは近江鉄道にいる295編成

そして、列車を撮影するために狭山線を訪ねたのは4両編成の新101系電車が走っていた2005年ごろがはじめてだ。当時は小手指車両基地に所属する4両編成の新101系電車が基本的に充当されていた。ときおり、2両編成を2本つなげた編成が走ることがあった。つまり4Mの全電動車で「クモハ-クモハ-クモハ-クモハ」。掲載している写真はそのときのものが多い。

また、2010年のダイヤ改正では池袋からの直通列車が日中の定期ダイヤで運行されるようになったさいにも、新101系電車の10両編成があてられることがあり、狭山線にはそれを見に出かけていた。2012年に本線系統の定期運用から新101系電車が撤退してからは乗ることはあっても撮影にでかけていない。いまでは新2000系の4両編成が線内折返し運用についている。定期ダイヤでの平日日中の池袋線直通列車はなくなった。そういえば新2000系電車の4両編成も3M1T(クモハ-モハ-モハ-クハ)の強力な編成だ。

西所沢の曲線や下山口周辺の住宅地を見るたびに、ここを短編成の赤い旧型電車が走っていたようすを想像する。赤い旧型電車は苦しげな大きな音を立てて勾配を登っていたのではないかなどと想像して遊んでいる。畑の中や雑木林を抜けて住宅地の裏を「急行 狭山スキー場」と書かれたヘッドマークをつけた2両編成の電車が走っていたのだろうか。いや、もっとまえの黄色と茶色のツートンカラーの時代だったら……『となりのトトロ』のあれか。そういう想像をもっと強く持つようになると、鉄道模型を自分で作るようになるのかも。

【撮影データ】
Nikon D2X/AI Nikkor 35mm f/1.4S, AI AF Nikkor 35mm f/2D, AI AF Nikkor 24mm f/2.8D, AI AF Zoom-Nikkor 80-200mm f/2.8D ED <NEW>/RAW/Adobe Photoshop CC 2021(写真はいずれも2010年から2012年に撮影)