2018年3月21日水曜日

【チラシの裏】缶詰仕事をしながら

アンタだれ。いったいなにさ

■産みの苦しみというとカッコいいけどな
 いまもまた、あれこれと書く仕事とそれをまとめる仕事に追い込まれている。原稿書きと編集作業が山積みだ。依頼はほんとうにありがたいので、そこに文句をつけているのでは毛頭ない。だからこの状況は、より正確にいうと自分で自分を追い込んでいるというべきか。あえていえば、小説家や漫画家が締め切り前にこもって仕事をする「缶詰」といったところ。そういうとカッコつけすぎだなあ。そこで、SNSなどもほとんど放置状態だ。無愛想ですみません。うんざりさせられたり、不愉快さにわずらわされずに仕事をしたいから、いまだけはわがままをゆるしてもらえたらありがたい。もちろん、業務上必要な連絡はきちんと受けるので。忙しいアピールとか「俺を可愛そうだと思え」などと同情を引く繊細チンピラなモラルハラスメント的メソッドではない。そういうものにもうんざりさせられているのだし。


 さて、むかし読んだフランソワーズ・サガンのインタビュー*のなかに、たしかこんな記述があったはずだ。いわく、小説の執筆を始めると頭をかきむしり、いろいろな走り書きをびりびりと破る。ああ、自分にはもうものを書く能力なんてないのだ、と家の中をぐるぐる歩き回り、家族に心配と迷惑をかける、と。かのサガン先生もそうなのだから、ましてや自分など、と安心したいところだ……いや、安心していてはダメだろ。小説家ではなく、高度なストーリー展開や心理描写などが求められない自分にも、その気持ちはとてもよくわかる、というと怒られてしまうかな。

 もっとも、いまの自分の状況はその「執筆が始まる前の苦しみ」ではなくて、すでに「物語の始まり」は済ませたので、それをむしろ「どう終わらせるか」の地点に近い。締め切りもあるしさ。前述のサガンのインタビューでは、登場人物の性格が決まれば物語は進むようになるという。いっぽう、私はストーリーテリングをする文筆家ではなく、たんなるカメラ・写真関連の記事を書くことができる編集者・写真家に過ぎないから、もっと小さくニッチな作業の連続だ。なにかトラブルにあった登場人物も描かないし、凝ったレトリックも不要だ。物語を書いているわけではないから。それなのに……ため息。

■まとめたがりと走りたがり
 これはあくまでも私見ではあるけれど、たとえばなにかを書く仕事をするのでも、編集者あがりの人間と生粋のライターでは、そのまとめかたに「ちがい」があるような気がしてならない。ほんとうにごく私的な見方であると繰り返すが、編集者あがりは書くものをどうもものごとを俯瞰して、やや引きぎみに「きれいにまとめたがる」ところがあり、いっぽう、生粋のライターさんたちはまとめかたがうまくなくても、ぐいぐいと対象に迫って「突っ走る」ところがある気がするのだ。

 べつの言い方をすれば、編集者あがりが書くものは「そつなくまとめたがる」かわりに、突出したなにかもないことが多い。もちろん、みながそうなわけではない。そして、なにか特定の専門分野のあるライターさんには、編集者のあがりはよほど勉強しないとかなわない。最後はとくに、もともと私自身が「文章を書くことを仕事にしたいと思っていたわけではない編集者」だからなのかもしれないが。

 と書いておいて……いやいや、ずっと上の世代の編集者出身の小説家にはスターがたくさんいるのだから、たんなる自分の技量のなさのいいわけだ、と気づいてしまった。あぶない。気づいてよかったよ! こういうふうに「私」「筆者」などではなくて、「世間」「みんな」「日本」などと大きな主語でものを語るのは、じつによくないぞ、私。

■「寄り」と「引き」のバランス
 ただし、この「まとめたがり」と「走りたがり」のどちらの視点も持つことは悪いことではないのではないか、と思うのだ。いいと思いたい。その理由は、私は自分「だけ」が読みたい物語を書けばよい作家ではないから。そして、私が仕事で書くことは、お客さんにとって知りたいと思ってもらえるものでなければいけないから。私にしか興味をひかないものを書くのではなくて、お客さんの興味もひくものを書くべきなのだ。ここが作家との大きなちがいだ。そして、そもそも編集者は第一読者でもある。編集者の視点は、自分が依頼して書いてもらった原稿のよさをいかにいかして本を売るかと、読者として読んでみておもしろいかどうか、にある。

 そうなると、自分が原稿を書くときには、いつも「これはほんとうにおもしろいのか」という視点と、「ぜったいにおもしろくなるぜ!」という視点のどちらもバランスよく持っている必要がある。そして、このバランスがあまりうまくないと、できあがりがアレでナンなものになるわけ。もちろん、このブログでそれが実行できているかどうかは、また別の話。できていなくてもやむをえないとこのブログではなかば意図しているところもある。それは、ここは趣味の場でもあるので。

 それでも、ブログを書くときでも、私は結論を決めて展開を考えてから書いている。小見出しが着いている文章は、さいしょに構成を考えて小見出しを立てているから。けっして、てきとうに書き始めてから思いつきでまとめたりはしない。ブログエディター上で書き始めても、できるだけ校正をして、公開後にしばしば加筆や修正をする。職業上身につけたルール*は守ってはいるつもり。それでも誤記や表記のゆらぎをしばしば見逃してしまう。いまも誤変換とゆらぎを直したところだ。いろいろとえらそうにしてすみません。

■ 試合運びをうまくしないと
 いまの自分の問題は、むしろ「試合運びのうまくなさ」にある。仕事ができるひとというのは、段取りなり進行がうまいものだ。宴会の幹事を例にあげよう。まず、宴会の企画を行い、出欠確認と出席者が満足するお店をきちんとゆとりを持って手配でき、宴が終わるまでみなに不満をもたせずに済むかどうか。開催時期は出席者にとって参加しやすい時期か。値段や味、店の雰囲気、開始時間と終了時間などに参加者の不満はないかなどは、参加者との関係性、年齢、性別、人数によってことなるはずだ。「飯の手配がうまくできるやつは仕事ができる」と私の友人たちで仕事ができる人間がいう。おそらくその訓練というわけで、新入社員に宴会の手配をさせるという会社があるようだけれど、たしかに、この采配には仕事の進め方がよく現れる。トラブルが起きたときにはとくに。

 残念ながら、いまの自分はなんとか宴会は開けるけれど、ばたばたと落ち着きのない幹事なのではないかな。認めたくはないものだな……などとかっこいい言い方をしてはだめ。

 言いわけをすれば……ほんとにもう、言いわけだらけだなあ……私の仕事の進め方が、むかしよりもますます「最終コーナーまではちんたら走り、最後に思いっきり巻いてゴールする」というふうになりつつあり、その「巻き」がひところよりもうまくできずにいる。体力が落ちたのかな。いや、それはあるけれど、請け負っているページ数なり文字数も多くなった。加齢で話が長くなったとかいわない。そして、原稿や編集作業を遅れてスタートして猛烈に追い込むつもりが、いまは追い込みきれていないからこうして停滞する。進行がうまくできないというのは、いかに仕事の采配が悪いかという証明ではないか。あーもう。

 Webでそんな自分のだめな試合運びについて書いているのは、強い反省と決意があるから。いわば、ダイエットや禁煙の宣言みたいなもの。進行はあらかじめ不測の事態を予期して、逆算して進めるものだ。

 なお、「仕事ができるようになる極意」は簡単だ。優秀なひとの真似をすればいい。自分は仕事ができないとアピールしたくはない。本人は謙遜のつもりでも、卑屈に見えるように私には思われるからだ。そういうのを続けると、周囲に「できが悪い」とみなされるし、さらに、自分はダメなひとであるという「呪い」を自分にかけることになり、ほんとうに落ちこぼれになる。「自分は仕事ができるひとになろう」という思いは大切だ。根拠のない自信とか、過信とはことなるのさ。

 そう考えてまわりを見ていると、仕事ができるひとたちは、あちこちに気配りと目配りをしているよね。それに、不必要な愚痴や他人の悪口は公言しない。そしてなによりも、よほどのことがない限り他人を罵らない。とくに、最後のこれはとてもたいせつなことだと思うよ。

理髪王に俺はなる、ってやつ?

*フランソワーズ・サガンのインタビュー:おそらく『愛という名の孤独』(新潮社 1994年6月)紛失してしまったので、ややうろおぼえ。

*職業上身につけたルール:表記上のルールのついて文中で追記したものの、その部分が長くなるので以下に改めました。ご参考になればありがたいです。

1. 小見出しを利用して起承転結を考える
2. 改行は意味のあるまとまりごとに
3. 「なので」を順接の接続詞代わりに行頭に置かない
「文頭なので」は口語的には増えつつあるとはいえ、私にはまだ違和感がある)
4. 助動詞「れる・られる」を用いるとき
4-1)「可能」の意味で「見れる」と書くのは避け「見られる」と表記する
4-2)「思われる」のように「自発」の意味でも用いて語尾の種類を増やす
5. である体とですます体は、ほぼ揃える
(ふざけてわざと揃えないことはある)
6. 用語の統一やかなの「開き」と「閉じ」(漢字にするかどうか)に注意
(いまどきの雑誌ふう。共同通信表記に自分たちの経験を加えたものを用いている)
7. 副詞と連体詞はできるだけ開く
8. 固有名詞などは正確に表記する
(キ「ヤ」ノン、富士フ「イ」ルム、など)
9. 形式名詞(こと、とき、もの、ひとなど)は開く

なお、表記上のルールではなく、執筆上のルールとしては以下をあげておきます。

1. できる限り自分で取材をして裏づけを得る
2. 裏取りができていないものごとは記事化しない、あるいは筆者の憶測であることを表記
3. Webで参照できるものは参照する。ただし、Wikipediaは参考にとどめる


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