2023年7月10日月曜日

【ニッコールレンズのお話】AI Nikkor 85mm F1.4Sで撮る薄暮の町

f2.8

■こんどはAI Nikkor 85mm F1.4Sを持ち歩いている
少し前のエントリーで、モノコートで非AI方式のままのNikkor-S Auto 55mm F1.2をNikon Dfに組み合わせて、絞り開放付近で薄暮のころに撮り歩くのが楽しいと書いた。

Dfボディとの重量や大きさのバランスが自分には非常に合うように思えたし、球面収差の過剰補正による絞り開放時のハイライト部分のにじみを使ってみたかった。

AI Nikkor 85mm F1.4S

Nikon Dfとはよく似合う

だが、風景の一部分を切り取るような写真を撮る用途だと、いまの自分には85mmくらいの焦点距離が好ましく思える。そこで、こんどはAI Nikkor 85mm F1.4Sをつけて薄暮の町を何度か歩いてみた。絞り開放付近で大きなぼけを活用することを意図しながら。

f2.8

f2.0

f2.0

私のDfはファインダースクリーンを私製改造して交換してある。工場出荷状態よりもピントのヤマがつかみやすいはず。だが、フォーカスエイドを併用しても薄暮の時間に絞り開放で光学ファインダーで正確にピント合わせをするのは、いまの私には厳しい。一日の終りで眼のコンディションがもっとも劣る時間でもあるだろう。だから、Nikkor-S Auto 55mm F1.2のときと同じように、老眼鏡をかけてライブビューで拡大しながらピント合わせをしているものが大半だ。

f1.4

f2.0

■AI Nikkor 85mm F1.4Sとは
このレンズのこと何度も書いている。細かい説明は過去のエントリーもあわせてご覧いただきたいが、AI Nikkor 85mm F1.4Sは1981年(昭和56年)に発売されたFマウント大口径中望遠レンズだ。光学系は5群7枚の変形ガウスタイプ。公式ウェブサイトにも「ニッコール望遠レンズの中で最も明るいレンズ」と誇らしげにある。最短撮影距離は85cmと標準的だが、近距離撮影時の画質劣化を防ぐ近距離補正方式を採用しているところも特徴だ。

最短撮影距離は85cm

最大径80.5×長さ64.5mm、重さ620g、アタッチメントサイズは⌀72mmと一眼レフに装着するとおおいにめだつ大きさだ。とはいえ、いまとなってはそう大きくはないサイズだし、重さもそれほどあるとはいえないだろうか。近ごろのレンズはむしろ大きく重すぎるものが多い。

AI Nikkor 85mm f1.4S(左)とAI Nikkor 85mm F2S(右)

登場時には開放F値がF2のAI Nikkor 85mm F2S(1981年)もあった。こちらはアタッチメントサイズが⌀52mmで、AI Nikkor 50mm f/1.4Sを少し長くした程度のサイズだ。だから、携帯性のよさに関してはF1.4SはF2Sに負けている。F1.4Sはモータードライブやバッテリーグリップのあるボディと組み合わせるほうが重量比がよくなる。

AI Nikkor 85mm F1.4Sは
ボディもある程度の大きさや重さがあるほうが安定する。
F3+MD-4のほうが「時代考証は適切」なのは承知のうえだが
筆者はF2+MD-2またはMD-3+MB-1が好きなんだ許せ。
なぜならここは俺氏の個人ブログだからな(不敵な笑み)

AI Nikkor 85mm F2Sは
AI Nikkor 50mm f/1.4Sを少し長くした感じ

ニッコールレンズの85mmは距離計連動式のSマウント時代には、F1.5とF2が存在した。ところが、一眼レフのFマウントになってからは、長らくF1.8のNikkor-H Auto 85mm F1.8(1964年)しか存在しなかった。そして、1977年にAI Nikkor 85mm F2に置き換えられた。

F1.4の85mmが登場したのは、1980年にSタイプAIニッコールレンズシリーズが始まってから。そうして1981年に本レンズであるAI Nikkor 85mm F1.4Sが登場した。おそらくはヤシカ/京セラのRTS用Carl Zeiss Planar T*85mm F1.4 AEG(1975年)に刺激されて、対抗製品を用意しようという意図があったのではないか。キヤノンも1980年にNew FD85mm F1.2Lを発売している。

同時期にSタイプ化されたAI Nikkor 85mm F2Sも登場したものの、こちらは比較的短期間で製造終了してしまった。AI AF Nikkor 85mm F1.8Sに置き換えられたと考えていい。1990年代はオートフォーカス(AF)レンズで代替できると判断されたSタイプAIニッコールレンズの製造をやめる傾向にあった。

ところが、F1.4SのほうはAI AF Nikkor 85mm f/1.4D IF(1995年)がなかなか発売されなかった。カプラー駆動ではニコンFマウントは大口径レンズをAF化しづらかったのだと思う。そのためなのか、あるいはAFレンズとは光学系や描写がことなるからか、F1.4Sは2005年12月までコーティングを変えながら製造され続けた。

製造本数はそれなりに多いはずで、決して珍しいレンズではない。いまとなってはむしろ、F2Sのほうこそ探さないと見つけられない。

f1.4

f2.0

■AI Nikkor 85mm F2Sとは性格がずいぶんことなる
AI Nikkor 85mm F1.4Sは所有していた業務ユーザーは少なくはないはず。写真家の先輩のみなさんからは「持っていたよ」という話はよく聞く。めだたないけれど業務の現場では信頼されて使われ続けたレンズなのかもしれない。

だが、CONTAX RTS用のCarl Zeiss Planar T* 85mm F1.4シリーズのような「伝説」を聞いたことがない気がするのは、筆者が無知なだけだろうか。AI Nikkor 85mm F2Sには鯨井康夫さんが愛用して「家を建てた」という「伝説」があるのだが。

1990年ごろの日本大学藝術学部写真学科の石井鐵太教授(当時)による『日本カメラ』誌上での各社85mmレンズ比較テスト記事では、F1.4Sは「標準的な性能」と書かれていたことを覚えている。また、サンダー平山(平山真人)さんは『季刊クラシックカメラ』No.16(2002年7月、双葉社ムック)で「絞り開放付近の描写がどこかボヤッとしている。ニッコールらしくない描写なのだ」(P.61)とも。記憶によれば他誌でも「色が薄い」などとも書いていたはずだ。

これらをよく覚えているのは、自分が所有しているレンズがどういう性格なのか興味があったから。ほかの85mmを使ったことがない私は「ほんとうかなあ」とも思っていた。

21世紀も20年以上過ぎたいまになってデジタルカメラで両者を同じ状況で使ってみて、それぞれの性格のちがいを少しだけ体感することができた。そして言語化できるようになり、石井教授とサンダーさんのいわんとしていることが、少し理解できた。

世の中には30年も前の記事を覚えている、こういう人間がいるんですよ。

まずF1.4SとF2Sはもともと、球面収差の残し方が意図的に変えられている。『アサヒカメラ』ニューフェース診断室(1982年5月号)にはF1.4Sは「完全補正」でF2Sは「過剰補正」とある。ただしF1.4Sも近距離では過剰補正になる。

F1.4Sが完全補正にされているのは、おそらくはぼけの美しさをねらったから。『アサヒカメラ』によれば「解像力の伸びはそれほどではないが、ハロが減少し、ボケ味もすっきりする」そうだ。いっぽう過剰補正にすると解像感は保たれても「ハロとかボケ味に難があった」という。たしかにF2Sは絞り開放ではハロっぽい。

1980年代のSタイプAIニッコールには焦点距離が同じでも、開放F値がことなる製品が用意されていた。このうち、大口径レンズのシリーズはどちらかというと球面収差を完全補正にしてぼけも美しくなるように意図されていたように思っている……少なくとも50mmと85mmはそうだ。ただし、AI Nikkor 35mm f/1.4Sは過剰補正なのだが。いっぽうで中口径のシリーズは、ユーザーがねがう「ニッコールレンズらしい明快な解像感」を持つようだ。

そして、AI Nikkor 85mm F1.4Sは「ポートレートレンズ」とメーカーウェブサイトに書かれているように、F2.8程度に絞ってポートレート領域(カメラから数メートル離れた程度)で撮影すると最良の性能を発揮するように意図されているのではないか。

これは自分の使用した実感と『アサヒカメラ』にある「絞ったからといっても、特にシャープになるわけでもない」というコメントからの推測だ。人物を撮るときに光線状態などの条件がいいと、被写体が浮かび上がるかのような描写になる。そんな経験が何度もあった。ところが、無限遠の被写体を撮影するには、絞り込んでも「それなり」にしか解像感は向上しない。この点に関してはむしろ、F2Sのほうが「びしっとした力強さ」を持つように思える。

もちろん、こういうふうにはっきりとした説明はメーカーからはなされていなかった。だからAI Nikkor 85mm F1.4Sの設計意図について書くのは、もちろん推測でしかない。思い込みの可能性もないとは言えない。それでも、私にはユーザーが勝手に思い込んでいる「ニッコールレンズらしさ」を意図的に持たせないように作られたのではないか、と思えてならない。

AI Nikkor 85mm F1.4Sに対する「ニッコールらしくない」という声はむしろ褒め言葉でさえあったはず。

いっぽうF2Sは「いかにもニッコールレンズらしい」とユーザーに思われる性格を意図されたのではないか。

f2.8

f5.6

■30年所有してようやく真価を知りつつあるかも
上記の描写の特性は中高生ではよくわからなかった。大学生になって自分でフィルム現像からプリントまでをある程度のクオリティで処理できる技術を身に着けて、六切以上の大きさのプリントの枚数をこなしていくうちに、おそまきながら気づきはじめた。

そして、デジタルカメラの時代になり、一眼レフで拡大ライブビューを使用できるようになり、ミラーレスカメラも普及してそれらの扱いに慣れた結果、ようやく自分にとってかなりの確信を持てるようになった。

私は何かを体得するのに時間がかかる。だから、数ヶ月使ってみて使いこなせないからと手放すようなことをしない。いちど気になったことは時間をかけてもあきらめ悪くずっと考え続けるし、情報収集につとめはする。しつこいのだ、私は。

いまならば拡大ライブビューやミラーレスカメラを使えば、絞り開放でもピント合わせが光学ファインダーよりも確実にできる。そうして撮ってみると、AI Nikkor 85mm F1.4Sは「いまどきのレンズ」にはないおだやかさを感じる。列車や都市風景のような無機的で硬質なものにはあまり向かない。人物撮影にこそ向いている。いっぽう、F2Sのほうはもう少し万能だ。

個人的にはf2から2.8にかけてのにじみのない、すっきりとしていて被写体が浮かび上がるような描写の美しさはF1.4Sがまさるように思える。F2Sはf2では絞り開放になりハロが多くにじむ。ところがf5.6あたりよりも大きな絞り値(小さな絞り)ではむしろ、F2Sのほうが解像感がある。とても興味深い。

薄暮の町を撮り歩いてみると、AI Nikkor 85mm F1.4Sは1960年代のレンズのようにはにじむことは少ない。そのいっぽうで、現代のレンズよりはやわらかい。いわば「モダンクラシック」とでもいおうか。21世紀のレンズではないけれど、そう古めかしくはないから使いやすく楽しい。もっと解像感がほしいならばシャープネス処理(輪郭強調)はコントラストを工夫して、それらしく見せることも可能だ。

そういうわけで、いまの私は状況に応じて使いわけるようになった。荷物を軽くしたい通常の撮影、日中に絞り込んで撮る状況ではF2Sを使う。いっぽう、光量がそう多くない状況で人物を時間をかけて撮るとか、薄暮の町を撮るにはF1.4Sを用意する。

AI Nikkor 85mm F1.4Sを、むかしの私はうまく使いこなせなかったと何度も書いている。もともと、85mm F1.4あるいはF1.2というのは、F2やF2.8のレンズと比べるとユーザーにそれなりの腕前を要求するレンズではあるかもしれない。かの有名なRTS用のCarl Zeiss Planar T* 85mm F1.4シリーズも、ヤシカ/京セラのRTSシリーズボディでは、ファインダースクリーンがきれいに見えすぎてピントのヤマが私にはつかめず、むずかしいレンズに思えた。

そんなAI Nikkor 85mm F1.4Sだが、いまとなっては使うたびに「自分にとっての発見」があるので、そのつど気に入ってしまうという「レンズ沼の永久機関」のような感覚を味わっている。道具だから適材適所ということにつきる。「使い勝手を含めて、それぞれの性格がことなるから条件に合わせて使いわけたい」という理由で、AI Nikkor 85mm F1.4Sと同F2Sのどちらも手放せない。

どうみても自分はオタクだ。

f2.8

f2.8

【撮影データ】
Nikon Df/AI Nikkor 85mm F1.4S/RAW/Adobe Photoshop CC(いずれも4,000Kから4,750Kにして青みを強調。周辺光量落ちを追加)

追記:各商品名はいずれも「販売終了時」の表記にしてあります。したがってニッコールレンズの表記ルールの改定される前に販売終了したものはAI Nikkor 85mm F1.4Sのように「F」は大文字でスラッシュはなし。いっぽう、表記ルール改定後にも販売されていたAI Nikkor 35mm f/1.4Sなどは「f」は小文字でスラッシュありというふうに、意図的に表記しています。

【2024年3月26日追記】
ニッコール千夜一夜物語にこのレンズの解説ページができました。合わせてご覧ください。佐藤治夫さん、ありがとうございます!