2020年9月11日金曜日

【JR川越線・八高線撮影記事】躍動感を表現したくて……今日も列車に乗る


■撮りたい絵柄を探しながら 
昨今の情勢下ではじつにやむを得ないことではあるものの、自分にとっては列車に乗る機会が減ってしまったことで生じた「弊害」というものが残念ながら存在する。それは「鉄道で展開される表現したい絵柄」を忘れてしまいつつあるということ。べつの言葉でいいかえれば「鉄道シーンにおけるじぶんにとってのツボ」というのだろうか。あれ、私はどんな鉄道シーンが好きなのだっけ……と考え込んでしまうことが増えた。

「かっこいいなあ」「こういう感じがいいんだよなあ」と感じて「これを写真に撮って表現したいなあ」と思わせるシーンというものは、鉄道に限らず日常生活のいろいろなところにある。そして、それは「思う」だけではだめだ。じっさいに試行錯誤しながら写真に撮ってみることを繰り返していかないと、写真でうまく表現することはむずかしい。

写真を撮るうえでもっとも重要なのは被写体をよく観察することだと思う。被写体が好きなだけではまだ不足なのだ。その気持ちをいかしてじっくり、あくまでも冷徹に観察すること。ぽーっとのぼせて見るのではない。冷静に観察に徹する。どの角度でどういう光線状態で被写体を見ると好ましく思えるか、あるいは好ましくはないかを見きわめる。そうやって被写体の動作やその状況を把握していけば、いずれは被写体の動きも予想できるようになる。これは人物撮影や動物の撮影、花の撮影や風景の撮影でも同じだ。

そして、それに対応した設定をしたカメラとレンズで記録するさいに、それらがいずれも「適切な設定であれば」思い描いていた写真に理屈のうえでは仕上がる。「適切な設定」を行うためにも、被写体の冷静な観察は不可欠だ。失敗した写真というものは観察が欠けることによって事前予測ができず、適切な設定を行うことができなかったから起こるのではないか。


■列車に乗らないでいると観察眼が鈍る
こうした写真術への取り組みはいつも行っているつもりでも、鉄道シーンへの観察眼が私の場合は列車に乗らないでいるとだんだん鈍くなるようだ。それはそうだろうなあ……と思わなくはない。いまはとくに「なんとか鉄道なに線のなになに形という車両を順光で克明に図鑑的に記録したい」というよりも、車両のある風景なり旅先で見た光景、感じた気持ち、列車の躍動感といった「鉄道のある情景」を撮りたいという気持ちのほうが強い。

だから「順光の編成写真」がこのブログに最近はほとんど出てこないのだ。ごめんね。順光の編成写真が撮りたくなることは私にももちろんある。でも、そういう写真はありふれているでしょう。私が撮らなくてもいいんじゃないかな。とにかく、そうなるとなおさらいろいろな鉄道シーンを観察しておかなくては、観察眼が鈍るだろう。同時に、さまざまな読書などで知識を増やしていくことも必要だろう。

写真に限らず、絵画を描くにも被写体を観察する重要性は同じように存在すると思うのだ。ただし、写真の場合は被写体を実際に存在するなにかから借りてくる必要がある。被写体をどういうふうにとらえるかという取捨選択に関わるからこそ、なおさら被写体への観察をきちんと行う必要があるのではないか。

ただし、こうしてうまく思うように写せないことを社会や情勢のせいにするのはよろしくない。茨木のり子の詩『自分の感受性くらい』にもある。もちろん、社会のせいにしたくなる気持ちはわからないではない。わかるよ。でもさ、なにかを責めているだけではなにも解決しないだろ。以下、引用するよ。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

ということ。社会情勢がどうであれ困難のなかでもきちんと創作できるひとはいる。少なくとも自分自身にむけてはいつもこの詩を思い出して叱咤激励し、がんばるぞお! と気持ちを鼓舞するようにしているよ。他人にいうことはしないけどね。

写真の話にもどれば、遠くの鉄道路線に出かけることができないならば近くの路線を観察するほかない。混雑している時間帯に乗車することを避けるとか、工夫をすればいい。模型をやっているひとは模型作りにいっそう励むなどというのも楽しそうだ。自分の想像の具現化がいちばん確実にできるのは模型かもしれない。観察眼と「模型映え」がするようなある種のデフォルメの技術がいっそう要求されそうだ。



■そんなわけで今日も近隣の列車に乗る
残念ながら模型はあきらめている私はそんなことを思いながら、この夏には近隣の列車の好きな区間を意図的に乗っていた。鉄道とその周辺をとにかく観察して、自分にとって鉄道のどんなところが好きなのかを考えるためだ。その際にはなにかをうまく撮ろうという気持ちは持たないようにしていた。

機材はレンズ数本のみにしてできるだけ身軽に……といいながら、広角、標準、中望遠の3本はレンズを持っているのでそう身軽ではない。そして、乗務員室後ろに立って列車の進行方向前方や後方を見ていた。何度も乗っている路線に乗るのだから、もちろん新鮮さはない。それでも、雨の日や日没後などのふだんは乗らない時間帯に乗ると景色の印象がことなるのはとてもおもしろい。

同時に設定を変えながら、うまくいかなくてもいいから車窓から見る景色をいろいろと写した。絞りやシャッター速度、露出補正、レンズをあれこれ変えた。そうしながら好みの絵柄を探っていく。帰宅してからも気になったカットは必ず拡大しながらチェックした。この繰り返しを地道に続けていくほかないなあと思う。


■躍動感をうまく絵にするのがもっかの課題
もともと私の写真は静的な絵柄が多くて、被写体の躍動感を表現するものが少ないということは自分でもわかっている。流し撮りも最近はあまりしないし。絵柄や表現技法が定着してしまい、確実に写すことができる方法ばかり選びがちであることも自覚している。絵柄のバリエーションを増やしたいと最近も書いた。絵柄のバリエーションが増えるということは、もちいる撮影方法の種類も増える。両者は密接に結びついているから。

撮影に出かけられない写真家のすることは機材いじりばかりになりがちだ。それはそれでいいのだけれど、ゴルフクラブを磨いたり釣り道具の掃除をしているひとと同じようなものだ。もちろん準備は必要だけれど、準備だけしていてもよろしくない。バッターボックスに立たないと試合は進まない。試合運びがうまくいかなくてもいいのだ。そんなわけで、今日もまた近隣の列車に乗って観察してみよう。

【撮影データ】
Nikon Df/AF-S NIKKOR 50mm f/1.8G (Special Edition)/RAW/Adobe Photoshop CC 2020