2024年3月10日日曜日

【秩父鉄道1980年代】SLパレオエクスプレス運転開始のころ


■1988年(昭和63年)4月1日の秩父路
もうすぐ2024年の秩父鉄道SLパレオエクスプレスの運行が始まる。3月8日付け発表の報道資料によると今年は4月13日(土)、14日(日)、20日(土)、21日(日)の4日間はJR東日本ぐんま車両センター所属の旧型客車4両を借用して運行されるそうだ。同リリースにもあるように、SLパレオエクスプレスの運行開始時から1999年までは、旧型客車で運行していた。今回運用する旧型客車のうちの1両スハフ32-2357はそのときにも用いられていた。

私はこのSLパレオエクスプレスの運転開始された1988年春までは、秩父鉄道に夢中で通っていた中学生だった。春の運行開始直後にも数枚だけ旧型客車を牽引するC58363の姿を撮影している。

そうか……SLパレオエクスプレスの運行が始まったのは1988年(昭和63年)なのか……36年も経つことに少しならず驚かされた。よくぞ運行を続けてくれているものだという言い方もできる。

1988年(昭和63年)がどんな年だったのかは自分に関すること以外はほとんど覚えていないが、まだあのころはソメイヨシノの開花は秩父では4月第2週だったように思う。Xで教えられたことによると、1988年の夏は冷夏だったのだそうだ。

自分は高校1年生だったのだろうか。何をして過ごしていたかの記憶もあまりない。

■小雨の降る寒い日だった
4月1日はまだ中高生の春休みだ。それで、私は秩父鉄道へやって来たのだろう。3月にも何度か100形電車を撮るために訪問していた。SLパレオエクスプレスは1988年3月19日から5月29日まで熊谷市で開催されたさいたま博覧会に合わせて運行されていた……のだそうだ。リアル中坊だった私は、まず自分が好きで通っていた秩父鉄道に国鉄型蒸気機関車が走るということに驚かされた記憶がある。

国鉄型電車の乗り入れはあっても、秩父鉄道は国鉄型の蒸気機関車とはあまり縁のない鉄道に思えたから。影森〜三峰口は最初から電化されて開業したのだし。

1988年4月1日の秩父路はまだ「早春」といったおもむきで、いちめんまだ枯れ草と1月から2月に咲いたであろうウメやモモが散りながらわずかに残るだけで、ソメイヨシノが咲くようには見えず、とうてい「4月」というふうに見えなかった。西武秩父線と秩父本線を乗り継いで、秩父セメント第二工場最寄りの駅に降り立ったときには、小雨が降っていて寒かった記憶がある。

そこから、貨物駅そばを通り、いまでもまだ姿を見ることができる煉瓦色のスイッチャーD304を撮り、上り方向の駅間にある切り通し区間を目指した。当時そこは桑畑のなかを走る区間で複数の第4種踏切もあり、下りSL列車であれば煙もねらうことができるのではないかと、数少ない秩父鉄道撮影地ガイドに掲載されるような撮影地だった。

いまは桑畑はすっかりなくなり、雑木林も小さくなり、複数あった第4種踏切のうち撮影しやすかったものも廃止され、さらに工場や住宅も立った。だから、同じようには撮ることはできない。



この日撮影したフジクローム50Dには、急行『秩父路』3号に充当されている300系電車303−304編成の姿もあった。中間にアルミカーであるサハ352をはさみ、空気バネ台車がおごられた編成だ。当時の私は300系電車と100形電車が好きで、それらを撮りたいと思っていたはずなのに、残念ながらその写真はピントを外している。

当時の時刻表を持ってはいないが、おそらく、急行『秩父路』も撮影したくて、SLパレオエクスプレス5001列車(以下、SL5001、同5002列車と略)は正午ごろに通過するはずなのに、10時前にはこの場所にいたということになる。当時の自分は気合の入り方がいまとはちがうもんだ。

気合の入っている証拠のひとつは、使用フィルムだ。暗い曇りの日にISO 50のフジクローム50Dを使っているのだ。AI Nikkor 85mm F1.4Sばかり使っているのは、おそらくF2.8まで絞りを開かないと1/500秒のシャッタースピードを使うことができなかったから。それしか買い置きのフィルムがなかったのかもしれない。

■失敗だと思っていたカットをいま見ると
1988年でも蒸気機関車が牽引する列車はとてもめずらしかった。だから、SL5001列車の通過直前になると、地元の皆さんも線路沿いに姿を現し始めた。それまで数年間秩父鉄道沿線でカメラを構えて列車を撮るひとに遭遇したことも少なく、地元の皆さんも列車に関心があるようにはまったく見えなかったから、このことにも非常に驚かされた。

SL5001列車通過直前にやってきた1000系1002編成には、警察官と思しき人物が同乗しているのが見える。線路内への危険な乱入者がいないかをチェックしているのだろう。そして、5001列車の通過直前になって、地元の皆さんが構えている私のカメラの画角内に入り始めた。寒いなか、うれしそうにはしゃいでいる。

カメラの存在をまったく考えもしないで画面内に入ってくるというのは、いかにも写真を撮らない一般のひとたちらしい行動だ。それにたいして、当時の自分はどう思っていたのか思い出せない。

ただ線路際で遭遇するカタブツな「SL爺」たちのように、画面の中に入るなと怒鳴りつけたりはもちろんしていない。これ以前やこのあともそういうひとたちをたくさん目にしたので、ハスキー三脚にアルミバッグをさげて「ショバ」(撮影地)だの「ゲバ」(三脚)「バケペン」(ペンタックス6×7シリーズ)などと下品な符牒を使い、仲間内だけで大声で下品に騒ぐ中高年集団に線路沿いで遭遇すると、いまでもできるだけ私は避ける。こういうのは、いかにも我々日本人らしい悪しき典型例だよね。身内かどうかで態度を使いわけて、「身内ではない」相手に傍若無人に振る舞うというのは。構成員の年齢が高ければ高いほど、経験上こういう集団からじつに不愉快なめにあうことが多かった。周囲の人たちを怒鳴ってどかすのはじつに嫌だ。お前たちの趣味のために傍若無人に威張り散らしなさんな。いい年してみっともないぜ、と思う。

風景写真の撮影地でもいるでしょう、怒鳴るひとが。あれもほんとうに嫌なんだよね。写真を撮る人間はむしろ、観光客がいない時間やタイミングを待って撮るべきなのではないか。

もっとも「写真をわかっていないひとたちが画面内に入ってきても、私は許容するよ」などというように善人ぶりたい、というわけでは私はない。私には私なりに功利的な打算があったはず。おそらくは、地元の皆さんたちを被写体として、画面内にうまく収めようと思ったのではないか。だから、画面内に見物客が入っても、構図を変えずに待ったのだろうと思う。いわゆる編成写真ばかりではなく、スナップショットをうまく撮れるようになりたいと思い始めたころだったはずだ。

スナップショットとはなにも「雑に撮った適当な写真」ではない。手持ち撮影で画面内の人物などの決定的なフォトジェニック瞬間をねらう写真という意味だ。

36年ぶりにあらためてポジフィルムを見て笑ってしまったのは、画面右側の女の子たちの集団のお母さんと思しき女性が、一心不乱にカメラを構えている姿が写っていたこと。そして、次のカットでは彼女は冷静になってちょっと身を引いている。スナップショット的な決定的瞬間を私は捉えていたようだ。革ケースに入っているカメラはなんだろう。

SL列車の写真としては以下のカットのほうが、煙で架線柱を隠すことができていて好ましい。だが、当時はより列車が近づいて人物を隠しているカットを「正解」だと思っていた。いま振り返るとむしろ、人物が写っているこれら2カットのほうが、いろいろと微笑ましくていい。


自分の写真の撮影技術ももう少しは上達しているはずだが、長く続けていると写真に対する好みや視点が変わっていくことも興味深い。

■震えながら100形電車を待った
さて、この下りSL5001列車を撮ってからどうしたのか、これもまた記憶にない。ただ、下り方向の有名撮影地に移動して、そこで折り返してくるSL5002列車を待ったことは残されているポジフィルムから判断できる。いまもこの場所は撮影できるが、携帯電話の基地局ができ、線路沿いに看板や柵が建てられて、撮影できる角度が限定されるようになっている。あまりに傍若無人な撮影者が増えたから。

おそらく、この日は使いかけのコダクローム64とこのフジクローム50Dを1本しかフィルムを持ち合わせていなかったようで、移動中の写真などが一切ない。フィルムカメラの時代、昭和の終わりの中学生にはリバーサルフィルムを1本買うのもけっこうな散財だった。21世紀のいまもそうかもしれないな。

1カットごとにISO感度を変更でき、メモリーカードを複数用意しておけば「12枚」「24枚」「27枚」「36枚」に撮影カット数をしばられないデジタルカメラの登場は、自分にはほんとうに福音だった。おかげで、目についたものをたくさん写すことができる。私には、レンズ交換式デジタルカメラは、フィルムへの思い入れ以上にずっとありがたいし、もはや手放せない存在だ。撮影カット数が多いほど試行錯誤もできて、写真の腕が上達するというものだ。

小雨が降り続くなかにいて、カメラを持つ手が寒さで手がかじかんだ記憶もある。そこへやってきたSL5002列車と、100型電車を撮って、ゴールシュートを決めたサッカー選手のように「よっしゃあああ!」と叫んでいたのではないか。地味な男子中学生が小雨の畑の中でそう叫んでいる姿は、いま想像するとちょっとおもしろい。地面にキスをしたり踊ったりはしていないだろうけれど。

いまのSL5002列車の長瀞発車時刻から考えると、15時半ごろだったと思う。それでも、この日はこれ以降の写真が見当たらないところを見ると、寒さに飽きて早々に帰宅してしまったようだ。



この春に100形電車は運用離脱してしまった。そしてこのあと、ソメイヨシノが咲くころにもう一度秩父にやってきたのが、1980年代の自分の鉄道趣味の最後の撮影になった。100形電車がいなくなり、土日のSLパレオエクスプレス運行日には沿線が混雑するようになって、高校に進学したのに「中二病」的メンタリティを持っていた私は、秩父鉄道趣味と鉄道趣味をこのあと20年以上やめてしまった。

「もの静かなところを自社発注でオリジナリティのある旧型電車が走るから好き」だったのに、国鉄型蒸気機関車が旧型客車を牽引して定期的に走り始めて撮影地がひとであふれるようになり、SL爺をはじめとするそばにいたくないひとたちも大挙して押し寄せるようになって……自分の居場所ではないように感じたのだろう。いかにも「中二病気質」な理由で秩父鉄道通いや鉄道趣味をやめた。

さらにいえば、このときに当時の自分には「それなりにうまく写せた」と満足してしまったようだ。昔から私は、いわゆるコレクター気質になれない。好きな対象に対して、わりとあっさりした執着心しか持てないでいる。

当時の写真はいま見るといろいろと稚拙だ。それでも旧型客車を牽引するC58363の姿をわずかにでも撮っていたのはよかった。それにしても、SLパレオエクスプレスがまさか、それから36年間も走り続けるようになるとは想像もしなかった。

【撮影データ】
Nikon F-301/AI Nikkor 85mm F1.4S/フジクローム50D/1988年4月1日

【2024年3月21日追記】
画像スキャンをやり直して差し替えました。VueScanをどうもうまく使いこなせず、古いOSを入れてあるMacintoshにLS-4000EDを接続してひさしぶりに純正ドライバーであるNikon Scan 4を使ったところ、手軽にましな色になりました。古いOSを入れてあるMacは非力なので処理時間がかかるのですが、Nikon Scan 4はSnow Leopardまでしか使えないのでやむをえません。Mac mini(Mid 2010)をいまさらSSD化してみようかしら(それもなんだかなあ)

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